第50話 団結のパンと決戦の朝
フィオナの手から温かいパンを受け取った少女は、こくりと頷くと、小さな声で「……ありがとう」と呟いた。その一言が、まるで合図だったかのように、張り詰めていた広場の空気がふわりと和らぐ。列に並ぶ人々も、パンを配るフィオナと、その隣で優しく微笑むエリィの姿を、もう猜疑の目ではなく、静かな眼差しで見守っていた。
「フィオナ……」
エリィが、フィオナの袖をくいと引っぱって、小声で囁いた。
「今、笑ったでしょ?」
「え……?」
フィオナは、思わず自分の頬に触れた。硬くこわばっているはずの筋肉が、ほんの少しだけ、緩んでいるような気がした。
「わ、私……笑って、いましたか?」
「うん。雪解け水みたいに、ちょっとだけね!」
そのやり取りを少し離れた場所から見ていたルーカスは、腕を組みながらフンと鼻を鳴らした。
「ケッ。やっと人間らしい顔つきになってきたじゃねえか」
フィオナとエリィが人々にパンを配り、心の氷を溶かしている間、マルセルとルーカスは街の影へと動いていた。
「さて、と。感傷に浸っている場合じゃないよ、ルーカス。我々は、この街を凍えさせている大元の問題を解決しなくては」
「ああ、分かってる。あの食料庫を買い占めたっていう、クソッタレな商人のことだな。どこに雲隠れしてるか、見当はついてるのか?」
マルセルの問いに、ルーカスは親指で街の外れを指し示した。
「『謎の商人』は、街の郊外にある古い砦を倉庫代わりに借り上げてるらしい。役場の地図で場所は確認済みだ」
「なるほど」マルセルは頷く。「おそらく、街が完全に飢え、暴動寸前になったところで、奴隷を買い叩くような値段で食料を売りさばくつもりだろう。古典的だが、最もたちの悪いやり方だ」
「上等じゃねえか。今すぐ乗り込んで、ぶん殴って全部取り返してやる」
「待って、力押しだけではダメだ。相手はこちらが来るのを待っているかもしれない。何か策があるはずだよ。まずは偵察に行こう、ルーカス」
「へいへい、学者先生のご命令とあらば」
軽口を叩きながらも、二人の間には完璧な信頼関係が築かれていた。
広場では、パンがすべて配り終えられていた。人々は一時的に空腹を満たしたが、その表情はまだ、明日への不安に暗く沈んでいる。そこへ、街の長老たちが、重い足取りでフィオナの元へやってきた。
「旅の方……温かいパン、心から感謝する。だが、正直に言おう。これだけでは、我々の長い冬は越せんのだ」
「はい、分かっています」
フィオナは、長老の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから、皆で力を合わせませんか? 誰かが助けてくれるのを、ただ待つのではありません。私たち自身の手で、この街の未来を掴み取るんです」
その力強い言葉に、長老たちは驚いて顔を見合わせた。「力を合わせるったって……我らに何ができるというのだ……」
その夜。宿屋の一室に、街の有力者たちが集められた。偵察から戻ったマルセルとルーカスが、持ち帰った衝撃の事実を告げる。
「思った通りだ。砦には美食家同盟の私兵と思われる見張りがウヨウヨいやがった。正面から行っても厄介だぜ」
ルーカスの報告に続き、マルセルが砦の簡単な見取り図と、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。
「そして、これが決定的な証拠です。買い占めに使われた資金の流れを記録した帳簿の写しです。これは美食家同盟が組織的に行っている、一種の経済侵略行為です。彼らの目的は、シウラの食料流通を完全に支配することにあります」
真実を知らされ、部屋は怒りの声で満ちた。
「許せん……! 我らは、飢えさせられ、弄ばれていたというのか!」
絶望は、今や共通の敵に対する燃えるような怒りへと変わっていた。
「作戦を立てましょう」
フィオナの声が、静かに部屋に響いた。
彼女は人々に呼びかけた。
「皆さん、どうか家に残っている食べ物を、ほんの少しでいいから持ち寄ってください! 干し肉ひとかけらでも、干し野菜一枚でも構いません!」
翌日、広場には、街中の人々がなけなしの食料を手に集まっていた。フィオナはその全てを大きな鉢に入れると、力強く生地を捏ね始めた。それは、それぞれの家の味が混ざり合った、この街だけの「団結のパン」だった。
焼きあがったパンを配りながら、フィオナは一人一人に声をかける。
「これは、私が皆さんに与えるパンではありません。皆さんが、ご自身の勇気と希望を持ち寄って作り上げた、皆さんのパンです。これを食べて、私たちの未来を取り戻しましょう!」
人々は、その温かいパンを静かに、しかし力強く噛みしめた。その目に、諦めではない、闘志の光が戻ってくる。
そして、決戦の朝が来た。
しんしんと降り続いていた雪は止み、空は鉛色に凍てついている。
街はずれの古い砦の前には、シウラの住民たちが、静かな怒りをたたえて集結していた。その懐には、フィオナと共に作った「団結のパン」が、カイロのように温かい。
エリィが、澄んだ声で歌い始めた。それはもう、か弱く春を待つ歌ではない。厳しい冬に敢然と立ち向かう、力強い決意の歌だった。その歌声は、陽動となって敵の注意を砦の正面へと引きつける。
砦の裏手の切り立った壁では、ルーカスが身軽に凹凸を掴み、音もなくよじ登っていく。眼下では、マルセルが冷静に時計を見つめ、合図を送っていた。
そして、フィオナは、民衆の中心に立っていた。
彼女は、固く閉ざされた砦の門を、真っ直ぐに見つめている。その横顔にあったぎこちなさは、もうどこにもない。そこにあるのは、仲間と、この街の人々と、そして自分自身を信じる、固い決意に満ちた表情だった。
シウラの食料と誇りを懸けた奪還作戦が、今、まさに始まろうとしていた。




