第44話 路地裏のパンと苦い笑顔
夜明け前の青い闇がまだ王都アウレリアを支配する頃、路地裏の一角だけは、まるで呼吸するかのように温かい光を灯していた。石窯で焼かれるパンの、甘く香ばしい匂い。それは、パン屋「アトリエ・フィオナ」が一日を始める合図だった。
店主であるフィオナは、白いエプロン姿で黙々と生地を捏ねていた。かつて公爵令嬢だった頃の繊細な指先は、今や小麦粉とバターの匂いを纏い、力強く、それでいて優雅に生命を吹き込んでいく。彼女の手にかかれば、ただの粉と水の塊は、夜明け前の空気を含んでゆっくりと発酵し、太陽の恵みを一身に浴びた小麦の香りを放つ奇跡へと変わるのだ。
「フィオナー! 一番窯、そろそろお願い!」
店の看板娘であるエリィが、太陽のような声でカウンターの向こうから叫ぶ。彼女の快活な笑顔は、この薄暗い路地裏そのものを照らすランプのようだった。フィオナはこくりと頷き、完璧な焼き色がついたブリオッシュを、長い木製のパドルで巧みに窯から取り出す。黄金色の肌は艶々と輝き、甘い湯気がふわりと立ち上った。
開店と同時に、アトリエ・フィオナはいつもの賑わいを見せた。フィオナのパンは、人の心を解きほぐす魔法がかかっていると評判だった。硬いパンを分け合う日雇いの労働者たち、子供のためにミルクパンを買う母親、恋人への土産にフルーツデニッシュを選ぶ若者。彼らは皆、幸せそうな顔でパンを頬張っていく。
その光景を、フィオナはカウンターの奥から静かに見つめていた。胸に広がるのは、温かい充足感。これこそが、彼女が公爵家を飛び出してまで手に入れたかった、ささやかで、かけがえのない日常だった。
昼下がり、店が少し落ち着いた頃、小さな男の子が一人、おずおずと入ってきた。母親に頼まれたお使いだろうか、握りしめた銅貨を大事そうに見つめている。
「いらっしゃいませ」
フィオナは、練習してきた通りの、できるだけ優しい声で言った。男の子はショーケースに並んだ、熊の形をしたチョコレートパンを指さす。フィオナは丁寧にそれを紙袋に入れ、カウンター越しに差し出した。
「はい、どうぞ」
ありがとう、また来てね。心がそう叫んでいる。だから、笑わなければ。感謝と歓迎を、表情で伝えなければ。フィオナは唇の端を、懸命に引き上げた。
だが、その努力は、鏡に映った自分の顔が無惨にこわばっていることを彼女に教えるだけだった。それは笑顔と呼ぶにはあまりにぎこちなく、むしろ、何かを耐えているかのような苦悶の表情に見えた。
案の定、男の子はびくりと肩を震わせ、小さな手を引っ込めてしまう。その瞳に浮かんだのは、喜びではなく、明らかな怯えの色だった。
「わっ、ごめんねー! うちの店長、美人だけど笑うのが苦手なのよ!」
すかさずエリィが飛び出してきて、男の子の頭を優しく撫でた。彼女がパンの袋を手渡すと、男の子はぱっと表情を明るくし、エリィの後ろに隠れるようにして店を駆け出していった。
一人残されたカウンターで、フィオナは自分の頬に触れた。熱もないのに、まるで火傷したかのようにひりひりと痛む。
「……また、怖がらせてしまいました」
「もー、気にしないの! フィオナのパンは太陽みたいに優しいのに、お顔は真冬の吹雪なんだから、もったいないお化けが出ちゃうわよ!」
エリィは悪戯っぽく笑うが、その瞳の奥にはフィオナへの心からの気遣いが滲んでいた。フィオナは何も言い返せず、俯いた。――感情を殺せ。公爵令嬢たるもの、決して人前で心の内を見せてはならぬ。幼い頃から父にそう教育され、鉄の仮面を被るようにして生きてきた日々が、今も亡霊のように彼女の表情を縛り付けていた。
カラン、と。
その時、店のドアベルが、いつもとは違う重々しい音を立てた。
入ってきたのは、旅人風のマントを羽織った一人の男だった。年の頃は四十代半ば。そのマントは霧の谷特有の深い緑色で、裾は旅の汚れと夜露で重く湿っている。彫りの深い顔には険しい道のりを越えてきた疲労と、それ以上に、何かを必死に訴えようとする切迫感が刻まれていた。
男は店内を見渡し、フィオナの姿を認めると、躊躇いがちに歩み寄った。そして、片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「……フィオナ様。フィオナ・フォン・シルフィード様でいらっしゃいますね」
その名で呼ばれるのは、もう何年も前のことだった。エリィが息を呑む気配がする。
「人違いです。私はただのパン屋、フィオナです」
「いいえ、あなたの焼くパンの噂は、国境を越え、我ら『霧の谷』にまで届いております。人の心を繋ぐ、奇跡のパンだと」
男――グレイグと名乗った――は顔を上げた。
「私は、その奇跡に最後の望みを託し、参りました」
グレイグの口から語られた話は、信じがたいものだった。隣国ヴェストリアとの交易が完全に途絶。原因は、根深い「食の対立」。かつて王国との戦に敗れたヴェストリアにとって、援助として送られた王国のパンは、今や「侵略と屈辱の象徴」と見なされていた。パンを肯定する交流派と、それを拒絶する伝統派の対立は日に日に激化し、今やいつ戦争が起きてもおかしくない状況なのだという。
「ヴェストリアの市場では、王国のパンを焼いたというだけで『侵略者の手先』と罵られ、石を投げられます。子供たちまでが、パンを巡って、親の世代の憎しみを真似て罵り合っているのです……!」
パンを巡って、子供たちが。
その言葉が、鋭い棘のようにフィオナの胸に突き刺さった。先ほど、自分のぎこちない笑顔に怯えていった男の子の顔が、脳裏をよぎる。パンは、子供たちを笑顔にするためのものなのに。
「なぜ、私に……?」
「ヴェストリアの穏健派を束ねる我が主が、あなたの噂を聞きつけたのです。どんなに凍てついた心さえも溶かすパン職人がいると。どうか、フィオナ様。あなたのパンで、我々の憎しみに満ちた歴史を……終わらせてはいただけないでしょうか」
国家間の対立を、パンで解決する? 笑顔ひとつ、満足に作れないこの私が? 馬鹿げた話だ。フィオナは無力感に唇を噛んだ。
だが、彼女の視線は、自然と焼き上がったばかりのパンに向けられていた。何の変哲もない、丸いパン。特別な力などない。ただ、そこにあるだけだ。
それでも。
フィオナはそのパンを一つ、そっと手に取った。まだ温かい。確かな生命の感触が、指先から伝わってくる。
「……パンは」
静かな店内に、凛とした声が響いた。
「パンは、誰かを支配したり、傷つけたりするためのものじゃありません。ただ……ただ、分け合うためのものです」
それは、彼女の魂からの叫びだった。
フィオナは顔を上げ、グレイグを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「行きます。あなたの国へ」
店の外では、アウレリアの空が燃えるような夕焼けに染まっていた。それは、これから始まる長く、そしておそらくは困難な旅路を暗示しているかのようだった。




