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第4話 石ころパンと、埃まみれの決意

 傾いた扉は、軋む音を立ててフィオナたちの前で重々しく開かれた。

 中に足を踏み入れると、埃とカビの匂いが一層濃くなり、思わず咳き込みそうになる。床には埃が積もり、壁には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、天井の隅からは雨漏りの染みが痛々しく広がっていた。カウンターだったらしきものは半分朽ち果て、奥の厨房らしき空間には、錆びついた巨大な薪オーブンが鎮座しているだけ。まさに、ルーカスの言う通り「お化け屋敷」そのものだった。


「……これは、想像以上だな」

 ルーカスが腕を組み、呆れたように呟く。マルセルは無言のまま、冷静な目で室内の隅々まで検分している。その目は、単なる執事のものではなく、かつて商人だった彼の父譲りの、鋭い鑑定眼を光らせていた。


「お嬢様、本当にここで……?」

 マルセルの問いかけに、フィオナはゆっくりと頷いた。

「ええ。ここがいいわ。何故か……落ち着くの」

 それは本心だった。この荒れ果てた空間に、彼女は不思議な可能性を感じていた。まるで、何も描かれていない真っ白なキャンバスのように。

「それに、家賃も破格なのでしょう?」

「破格というか、大家も持て余していたからな。ただ、条件がある。一年以内に店として機能させられなければ、即刻退去。敷金礼金はないが、修繕費用は全てこちら持ちだ」

 ルーカスの言葉に、フィオナは改めて気を引き締めた。


 マルセルがその手腕を発揮し、驚くほど迅速に契約手続きは完了した。もちろん、ヴィルヘルム公爵には内密に、フィオナ個人のけじめとして、あの小さな木箱の資金から手付金が支払われた。残金は雀の涙ほど。これで改装と開業準備を全て賄わなければならない。


 翌日から、過酷な「パン屋再生計画」が始まった。

 まず取り掛かったのは、掃除と片付け。マルセルが手配してくれた数人の日雇い労働者と共に、フィオナも動きやすい古着に着替え、頭に布を巻いて作業に加わった。もちろん、公爵令嬢がそんなことをしているなど、父が知れば卒倒するだろう。

 慣れない肉体労働は、想像以上に堪えた。埃を吸い込み、箒を持つ手にはすぐに豆ができ、腰は悲鳴を上げた。ルーカスは、そんなフィオナをからかいながらも、汚れるのも厭わず一番大変な作業を率先して手伝ってくれる。マルセルは、冷静な指示で効率よく作業を進めつつ、時折フィオナに温かいハーブティーを差し入れてくれた。


「フィオナ、お前…本当に公爵令嬢か? その格好、街の掃除婦と間違われるぞ」

 ルーカスが埃まみれのフィオナを見て笑う。

「…黙って手を動かしなさい、ルーカス。口を動かす暇があるなら、そこの瓦礫を片付けて」

 笑顔は作れなくても、指示だけは一人前だ。そんなやり取りにも、いつしか心地よさを感じるようになっていた。


 数週間後、ようやく店内は人が立ち入れる状態になった。雨漏りしていた屋根はマルセルの旧知の職人が格安で修繕してくれ、割れていた窓ガラスもはめ替えられた。だが、内装や設備の購入資金は、まだ目処も立っていない。


 そんな中、フィオナはいてもたってもいられず、店の片隅にマルセルがどこからか調達してきた小さな作業台と、例の古びた薪オーブンを据え付け、初めてのパン作りに挑戦することにした。

(大丈夫、前世の記憶があるわ。あの温かいパンを、この手で……)

 しかし、現実は甘くなかった。


 小麦粉をこねる感触は、記憶の中のそれとはまるで違う。水の分量、酵母の機嫌、生地の弾力。何もかもが手探りだ。前世の記憶は、まるで霧がかかった風景のように曖昧で、具体的な手順を教えてはくれない。

「……おかしいわ。こんなはずでは……」

 ようやく形になった生地を、恐る恐る薪オーブンに入れる。火加減も分からず、ただ祈るような気持ちで見守った。

 そして、焼き上がった(?)ものは――。


「……これは、何だ?」

 ルーカスが、黒焦げの塊を恐る恐る指でつつく。カツン、と硬い音がした。

「……パン、のつもり、だったのだけれど」

 フィオナの声は消え入りそうだ。それは、どう見てもパンではなかった。石のように硬く、表面は黒焦げで、中は生焼け。そして、形容しがたい奇妙な匂いが漂っている。

 二度目、三度目と挑戦しても、結果は同じだった。ある時は煙突からもうもうと煙が上がり、ご近所から苦情が来そうになったり、またある時は、まるで湿った粘土細工のようなものが出来上がったり。


「フィオナ、これは……もしかして、新しい投擲武器か何かか?」

 ルーカスの精一杯の冗談も、今のフィオナには届かない。

 マルセルは、黙って失敗作の一つを手に取り、慎重に匂いを嗅ぎ、ほんの少しだけ口に含んで顔を顰めた。

「お嬢様…これは、根本的に何かが間違っているようです。材料の配合か、あるいは発酵の過程か…このオーブンの特性も掴めていないご様子」


 フィオナは、作業台に並んだ惨憺たる「パンの残骸」を前に、がっくりと肩を落とした。

(私には…才能がないのかもしれない)

 前世の記憶なんて、ただの都合の良い夢だったのだろうか。パン屋を開くなど、やはり無謀な夢物語だったのだろうか。

 笑顔の作り方どころか、パンの作り方すら分からない。

 公爵令嬢としての自分も、パン職人としての自分も、どちらも中途半端で、何も成し遂げられないのかもしれない。


 薄暗い店内には、失敗作のパンが放つ焦げ臭い匂いと、フィオナの深い溜息だけが満ちていた。

 技術という、あまりにも高く険しい壁が、彼女の行く手を阻んでいた。

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