第35話 二つの塩パンと、頑固者たちの雪解け
フィオナの「パンを焼きますわ」という宣言に、仲間たちは一瞬きょとんとしたが、すぐにその真意を悟り、それぞれの持ち場で動き出した。そのチームワークは、もはや熟練の冒険者パーティのそれである。
フィオナは、町の片隅で店主の高齢を理由に休みがちだったパン屋を見つけ出し、事情を話して厨房を借り受けた。主人のパン職人は、最初こそ「貴族のお嬢ちゃんに何ができる」と訝しげだったが、フィオナの真摯な眼差しと、材料に向き合う姿勢を見て、何も言わずに工房の鍵を貸してくれた。
工房に立ったフィオナは、対立する二つの陣営から分けてもらった塩を、小さな皿に並べてじっと見つめる。
一つは、若い職人たちが新しい製法で作った、雪のように白く、口に含むとキリリとした潔い塩気が走る「白塩」。
もう一つは、古参の職人たちが伝統的な塩田で作り上げた、少し灰色がかった、複雑でまろやかな海の旨味を感じる「岩塩」。
(どちらも、素晴らしい塩……。優劣なんてない。あるのは、個性だけ。ならば、その個性を最大限に引き出すパンを焼けばいいんだわ…!)
閃きを得たフィオナの瞳が、きらりと輝いた。
彼女はまず、若い職人たちの「白塩」を使って、生地作りを始めた。その潔い塩気は、生地の甘みを驚くほど引き立ててくれるはずだ。フィオナは、たっぷりのバターと新鮮なミルクを練り込み、丁寧に発酵させた生地を、ふんわりと雲のような形に成形していく。焼き上がったのは、「白塩の雲海バターロール」。一口食べれば、雲のように軽い食感と、バターの豊かな香り、そして塩が引き立てる優しい甘みが口いっぱいに広がる、幸せの味だ。
次に、古参職人たちの「岩塩」。フィオナは、その複雑で深い味わいを活かすため、生地に地元の畑で採れたばかりの力強い香りのハーブと、上質なオリーブオイルをたっぷりと練り込んだ。平たく伸ばした生地に指でいくつも窪みをつけ、岩塩をぱらぱらと振りかけて焼き上げる。完成したのは、「岩塩と潮風のフォカッチャ」。潮風と大地の香りが凝縮されたような、噛めば噛むほどに味わい深い、大人のためのパンだ。
工房には、甘く優しい香りと、食欲をそそる香ばしい香り、二つの対照的な匂いが満ち満ちていた。
その頃、町の広場では、マルセルが町の役場から完璧な手続きで一時使用許可を取り付け、テーブルと椅子を並べていた。エリィは、その持ち前の太陽のような笑顔で町中の女性や子供たちに声をかけて回る。
「みなさーん! とーっても美味しいパンのお茶会がありますよー! なんと、あの王都で評判のパン職人さんが、この町のために焼いてくださったんです! さあさあ、おいでなすって!」
エリィの呼びかけに、人々は興味深そうに、しかしどこか遠慮がちに集まり始めた。
そしてルーカスは、酒場や作業場で燻っていた両陣営の職人たちを、半ば強引に広場へと連れてきていた。
「まあまあ、親父さんたちも、若いのも! あのお嬢ちゃんが、せっかく俺たちのためにパンを焼いてくれたんだ。一口くらい、食ってやるのが男の甲斐性ってもんだろうが! なあ!」
ルーカスの強引だが憎めない説得に、職人たちは渋々ながらも、互いにそっぽを向き、腕組みをしながら広場に集まった。その間には、まだピリピリとした険悪な空気が流れている。
そこへ、焼きたてのパンが山と盛られた大きなバスケットを抱えたフィオナが、エリィと共に現れた。
フィオナは、まず頑固な古参職人たちの前に「白塩の雲海バターロール」を、そして血気盛んな若い職人たちの前に「岩塩と潮風のフォカッチャ」を置いた。
そして、静かに、しかし凛とした声で語り始める。
「皆様、どうぞお召し上がりください。こちらのバターロールは、若い皆様の新しい『白塩』を使わせていただきました。その潔い塩気は、パンの甘さを驚くほど引き立てて、子供からお年寄りまで、誰もが笑顔になれる優しい味を生み出してくれます」
若い職人たちが、自分たちの塩がそんな風に評価されたことに、少し驚いたような顔をする。
「そして…こちらのフォカッチャは、親方様たちの伝統の『岩塩』を。その海の恵みを感じさせる深い味わいは、ハーブの香りと一体となり、まるでこの町の歴史そのもののような、物語のあるパンにしてくださいました」
古参の職人たちも、眉間の皺を少しだけ緩める。
「どちらの塩も、この町が誇る素晴らしい宝物ですわ。 どちらが上で、どちらが下などということは、決してございません。ただ、それぞれに素晴らしい個性があるだけなのです」
職人たちは、最初は訝しげに、しかしパンの抗いがたい香りに抗えず、恐る恐る手を伸ばした。
自分の塩を使ったパンを食べ、その想像以上の美味しさに目を見張り、そして、相手方の塩を使ったパンを口にし、その全く違う、しかし紛れもなく素晴らしい魅力に、ハッとした表情を浮かべる。
「……ほう。若造のこのキリッとした塩も、甘いパンにすると、こうも味が引き立つものか…」
古参職人の親方が、唸るように呟いた。
「……親父たちの塩は、やっぱり…味が濃くて、力強くて…うめえな…。こんなパン、食ったことねえ…」
若い職人たちのリーダーが、ぶっきらぼうに、しかし素直な感想を漏らす。
その一言をきっかけに、凍りついていた空気が、ゆっくりと溶け始めた。
「お前のところの塩、最近どうやって作ってるんだ?」「親父さんこそ、あのまろやかさを出す秘訣は…」
あちこちで、塩についての、仕事についての会話が自然と生まれていく。エリィが「さあさあ、おじい様も若旦那も!おかわりはたーくさんありますよーっ!」と満面の笑みでパンを配り、ルーカスが「だろ?美味いだろ?俺が育てたパン職人だからな!」と相変わらず自分の手柄のように威張り(フィオナに後で軽く睨まれた)、広場はいつしか、笑顔とパンを頬張る幸せな音で満たされていた。
その日の夕方には、職人たちは長年のわだかまりを解き、互いの技術を認め合い、協力して「最高のソルティスの塩」を再び作り出すことを誓い合っていた。町には、久しぶりに職人たちの威勢の良い笑い声と、活気が戻っていた。
翌朝。フィオナたちが町を立つ時、あれほど険しい顔をしていた職人たちが、総出で見送りに来てくれた。
「お嬢ちゃん、いや、フィオナさん!本当にありがとうよ!」
「あんたのパンのおかげで、目が覚めたぜ!」
感謝の言葉と共に、職長はフィオナに一枚の古びた羊皮紙を差し出した。
「これは、わしらの一族に代々伝わる、霧吹きの谷へと続く海の道が記された海図だ。それから、谷の一族とも古い付き合いがある、信頼できる商人の名前も書いておいた。きっと、あんたたちの旅の助けになるはずだ」
それは、何物にも代えがたい、感謝の印だった。
「フィオナ様、すごい! パンで、みんな仲直りしちゃいましたね!」
「ああ、パンはただ腹を満たすだけじゃねえんだな…」
馬車に揺られながら交わされるエリィとルーカスの言葉に、フィオナは静かに微笑んだ。
自分のパンがもたらした、しょっぱくて、でも温かい小さな奇跡。その記憶が、これから続く長い旅の、大きな力となることを感じながら。




