第34話 塩の町と、しょっぱい涙のパン
王都での栄誉と喧騒を後にしてから、一週間。
フィオナ・ヴィルヘルムと彼女の仲間たち――ルーカス、マルセル、そしてエリィを乗せた質実剛健な馬車は、最初の幻の食材「朝露酵母」が眠るという「霧吹きの谷」を目指し、街道をひた走っていた。王国を蝕む「眠り病」に苦しむ人々、そして再び憂いを帯び始めた国王陛下の顔を思い浮かべるたび、フィオナの胸にはパン職人としての使命感が熱く灯る。
「しかし、地図によればこの先に海沿いの町があるようです。一度立ち寄り、補給と、それから…そうですね、馬車の車輪の点検もしておきましょう」
御者台に座るマルセルが、馬を操りながら冷静に提案する。その手には、もはや彼の身体の一部と化した詳細な地図とスケジュール表が握られていた。
やがて、潮の香りが風に乗って運ばれてくると、視界の先に白い塩田と、灰色の石造りの家々が並ぶ町が見えてきた。塩田の町「ソルティス」。地図によれば、王国でも有数の良質な塩の産地として知られているはずだ。
しかし、町に足を踏み入れた一行は、すぐにその異様な雰囲気に気づいた。
潮風は吹いているのに、空気がよどんでいる。港には多くの船が停泊しているのに、人々の活気がない。すれ違う町の人々の顔には笑顔がなく、どこか険しい表情で、互いに視線を合わせようともしない。
「なんだか…この町、ピリピリしてませんこと?」
フィオナが不安げに呟くと、エリィもこくこくと頷いた。
「はい…。なんだか、みんな怒っているみたいですぅ…」
「ふん。活気のない町ってのは、どうにも好かんな。よし、俺が一発、景気づけに…」
ルーカスが腕まくりをして何事かを始めようとしたのを、マルセルが「ルーカス様、まずは情報収集が先決かと」と静かに制する。
かくして、チーム・フィオナによる「ソルティス町・実態調査(仮)」が開始された。それぞれのやり方で。
「ごめんあそばせ、奥様方! いやー、いいお天気ですわね!ところで、この町で一番美味しいお魚が手に入るお店って、どちらかしら?」
エリィは、持ち前の太陽のような笑顔と天真爛漫さで、井戸端会議をしていたおばさんたちの輪に、ものの数分で溶け込んでいた。そして、巧みにおしゃべりを誘導し、「昔はここの塩で漬けた魚は絶品だったのにねえ」「若い連中が新しいやり方なんて始めるから、塩の味が落ちちまってさ」「頑固な親方たちも、少しは若者の言うことを聞けばいいものを…」といった、町の不満の核心を見事に引き出していく。そのコミュニケーション能力は、もはや外交官レベルだ。
一方、ルーカスは町の唯一の酒場へと向かった。
「よお、兄弟たち!一杯おごるぜ!…で、どうなんだ?この町は。なんだか、みんなカリカリしてるじゃねえか」
彼の気さくで竹を割ったような性格は、若い職人たちの警戒心を解くのにうってつけだった。最初は渋っていた若者たちも、酒が入るにつれて溜まっていた鬱憤を吐き出し始める。
「ちくしょう!俺たちは、もっと効率よくて、質の良い塩を作る方法を見つけたんだ!なのに、頭の固い親父たちが、『伝統が一番だ』なんて言って、聞く耳を持たねえんだ!」
「そうだそうだ!俺たちのやり方なら、町はもっと豊かになるはずなのに!」
そしてマルセルは、まるで監査官のように、町の役場や商人組合を訪れていた。
「なるほど…塩の生産量は三年前から漸減。価格も下落傾向。特に、王都の高級レストラン向けの最高級品の出荷が激減しておりますな。これは…職人たちの対立による品質の低下が、町の経済基盤そのものを揺るがしている、と見るべきでしょう」
彼は、カウンターの隅に置かれていた塩の塊を指先でほんの少しだけ舐めると、「…ふむ。ナトリウム純度は高いが、マグネシウムとカリウムのバランスが僅かに崩れている。これでは、味に深みが出ないはずだ」と、化学者のような分析までしてみせる。その万能ぶりには、組合の役人も呆気にとられるばかりだった。
その夜、宿屋の一室に集まった四人は、それぞれの調査結果を報告し合った。
「新しい製法を取り入れたい若い職人たちと、伝統を守りたい古参の職人たち…その対立が、この町の活気を奪っているのね」
フィオナは、静かに結論づけた。彼女には、どちらの言い分も理解できた。どちらも、「この町を良くしたい」という同じ想いを持ちながら、プライドや意地、そしてほんの少しのコミュニケーション不足が、彼らの心を隔ててしまっているのだ。
「…しょっぱい涙を流しているのは、きっと職人さんたちだけじゃない。この町、そのものなのね」
彼女の碧眼に、強い光が宿った。
「私、決めましたわ。パンを焼きます」
「え、パンを?こんな時にかい、フィオナ?」
ルーカスが驚いて尋ねる。
「ええ、こんな時だからこそ、ですわ。この町の人々の心を、そして、しょっぱくなってしまったこの町の味を、もう一度繋ぐためのパンを、私が焼いてみせます!」
その瞳は、もはやかつての気弱な令嬢のものではなかった。一人のパン職人として、人々の心に寄り添い、希望を届けようとする、強く、そして優しい光に満ちていた。
フィオナは、マルセルに頼んで、対立する両陣営から、それぞれの塩を少しずつ分けてもらった。一つは、若者たちが作った、雪のように白く、キリリとした塩気の新しい塩。もう一つは、古参の職人たちが作った、少し灰色がかった、複雑でまろやかな味わいの伝統の塩。
フィオナは、その二つの塩を前に、静かに目を閉じた。どんなパンを焼けば、彼らの心に届くのだろうか。
仲間たちが見守る中、彼女の新たな、そして心温まる挑戦が、潮風の吹く町で静かに始まろうとしていた。




