第33話 路地裏のパン屋と、私の見つけた宝物
ライアス王太子と、思い出の東屋で過去を清算してから、季節は穏やかに巡った。
「アトリエ・フィオナ」は、すっかり王都の名物店として定着し、今日も朝からパンの焼ける香ばしい香りと、お客様の絶えない賑やかな声に包まれている。
「はい、おじいちゃん! いつものライ麦パン、今日は特別に焼き立てですよっ!」
「まあ、エリィちゃん、いつもありがとうねえ」
「あら、奥様! 今日は旦那様もご一緒? それなら、新作のクルミとハチミツのパンもいかがですか? とっても美味しいんですよ!」
店の看板娘としてすっかり板についたエリィが、太陽のような笑顔で常連客と楽しげに会話している。その姿を、フィオナは工房の中から、目を細めて見つめていた。
(本当に、夢のようね…)
今のフィオナは、店の喧騒を背に、工房で新しいパンの試作に没頭するのが何よりの幸せだった。あの謎の老紳士から託された古いレシピ帳。その中に記されていた「春の妖精の涙」と呼ばれる、幻のベリーを使ったパンの再現に挑戦しているのだ。その表情は真剣そのものだが、口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
昼下がりの休憩時間。店の扉がカラン、と音を立てて開いた。
「よお、フィオナ! また工房に引きこもって、変なパンでも作ってるんじゃないだろうな!」
いつものように軽口を叩きながら入ってきたのは、ルーカスだ。彼は最近、家の仕事も少しずつ手伝うようになり、以前よりも顔つきが精悍になった気がする。
そして、その隣には、大きなバスケットを抱えたマルセルの姿が。
「お嬢様、お疲れのことと存じます。故郷のヴィルヘルム領から、今年初摘みとなりました『春の妖精の涙』を使った、特製のジャムが届きましたので、お持ちいたしました」
「まあ、マルセル!なんて素晴らしいタイミングなの!」
フィオナは、目を輝かせてそのバスケットを受け取った。
かくして、アトリエ・フィオナの小さなテーブルでは、緊急試食会が開催されることになった。
フィオナが試作中の、ほんのりピンク色に色づいた可愛らしいパンに、マルセルが持ってきた、宝石のように輝くルビー色のジャムを添えて。
「わぁ……!おいしいですぅ~! 甘酸っぱくて、爽やかで、なんだか心がきゅんとしちゃいます! このパンに、このジャム!最高の組み合わせです、フィオナ様!」
エリィは、頬いっぱいにパンを頬張りながら、幸せそうに声を上げる。
「……ん、うまい!…まあ、俺が日頃から的確なアドバイスをしてやっているからこそだな、この完成度は! そうだろう、フィオナ?」
ルーカスは、したり顔で胸を張るが、その口の周りにはジャムがべったりとついている。
「…お嬢様のパンと、我が家の伝統を受け継ぐジャム…これぞ、まさに至高のマリアージュでございますな……」
マルセルは、ハンカチでそっと目頭を押さえ、感涙にむせんでいるようだった。
フィオナは、そんな三人の姿に、くすくすと笑い声を漏らした。
「ふふっ、ありがとう、みんな。でも、そうね…もう少しだけ、生地のふんわり感を足したいわね。ええ、まだまだ改良の余地がありそうだわ」
その横顔は、自信と、そしてパンへの尽きない探求心に満ちて輝いていた。
「そういや、この前レオンの親方がさ、お前の店の前で腕組みしながら、『…ふん、まあ、俺がいなくても、それなりのパンは焼けるようになったじゃねえか。ちっ…』って、すげえ寂しそうな顔で呟いてたぜ」
ルーカスが、面白そうにからかう。
「あら!ライアス殿下とリリアンヌ様も、この前二人でお忍びで買いに来てくださったんですよ!すごく仲が良さそうで、『この店のパンは、食べると心が安らぐ』って、二人で微笑み合ってました!」
エリィが、嬉しそうに報告する。
レオン親方も、ライアス殿下も、リリアンヌ様も。誰もが、それぞれの場所で、新しい一歩を踏み出している。そして、その中心には、いつもフィオナの焼く温かいパンがあった。
仲間たちとの楽しい会話。店の外から聞こえるお客様の賑やかな声。そして目の前にある、美味しいパンとジャム。
フィオナは、自分が手に入れた幸せの形を、改めて、深く、深く噛みしめていた。
夕暮れ時。
店の片付けを終えたフィオナは、焼き立てのパンを一つ手に取り、店の扉の前に立った。路地裏の小さなパン屋。でも、ここは彼女の世界の中心であり、彼女が彼女自身でいられる、かけがえのない場所だ。
夕焼けの優しい光が、フィオナと、彼女の愛する店を包み込む。
(婚約破棄され、全てを失ったと思ったあの日。空っぽになった私の心に、温かい光を灯してくれたのは、焼きたてのパンの香りだった)
彼女は、静かに心の中で呟く。
(でも、本当に私を救ってくれたのは、パンだけじゃない。私を信じ、支え、共に笑い、泣いてくれた…かけがえのない仲間たち。そして、『美味しい』と笑ってくれる、優しいお客様たち)
フィオナは、店の奥で談笑しているエリィ、ルーカス、マルセルの姿を、愛おしそうに見つめた。
(私が手に入れた宝物は、この小さなパン屋に、全部詰まっている)
彼女は、手の中の温かいパンを、そっと一口かじった。香ばしくて、優しくて、ほんのり甘い。
「――さあ、明日も、世界で一番美味しいパンを焼きましょう」
風に乗って運ばれてくる花の香りに、フィオナは囁きかける。
「この温かくて、優しい香りが、たくさんの人を幸せにしてくれると、信じているから」
路地裏に灯る、小さなパン屋の明かり。その前で、フィオナは、夕焼け空に向かって、これまでで一番美しく、そして幸せに満ちた笑顔を見せたのだった。




