第32話 東屋の告白と、風が運ぶパンの香り
約束の日の午後。フィオナは、いつものパン屋のエプロンをきゅっと締め直し、王都の喧騒から少し離れた、思い出の古い東屋へと向かった。エリィがこっそり髪に結んでくれた、小さなパンの形の飾りが優しく揺れている。かつて、ルーカスと将来の夢を語り合ったり、時には一人でこっそり涙を拭ったりした、懐かしい場所。
そこには既に、ライアス王太子が一人で佇んでいた。貴族の正装ではなく、上質だが動きやすそうな、少しラフな格好だ。その姿は、かつての冷たく近寄りがたい王太子ではなく、どこか悩める一人の青年といった印象をフィオナに与えた。
「…来てくれたのだな、フィオナ」
ライアスは、フィオナの姿を認めると、少し緊張した面持ちで言った。その呼び方が、以前の「ヴィルヘルム嬢」ではなく、親しみを込めた「フィオナ」に変わっていることに、彼女は小さく息をのむ。
「はい、ライアス殿下。…お話とは、一体何でしょう?」
フィオナの声も、自然と柔らかくなる。
東屋の古びたベンチに腰を下ろすと、しばらくの間、二人の間にはぎこちない沈黙が流れた。鳥のさえずりと、風が木の葉を揺らす音だけが、静かに響いている。
やがて、ライアスが意を決したように口を開いた。その声は、驚くほど静かで、そして誠実だった。
「フィオナ…まず、君に伝えなければならないことがある。あの婚約破棄の日のことだ。私の口から出た言葉は、君を深く、深く傷つけた。それは…紛れもない事実だ」
彼は、そこで一度言葉を切り、フィオナの目をまっすぐに見つめた。
「あの時、私は…若く、そして愚かだった。父である国王陛下からの圧力、王家内の複雑な政治的駆け引き、そして…何よりも、私自身の弱さが、あのような冷酷な決断をさせてしまった。君の才能や、その真っ直ぐな心に気づきもせず…いや、気づかないふりをしていたのかもしれない」
ライアスの声には、深い後悔の色が滲んでいた。
「『政治的に無用だから』…あんな言葉で、君の尊厳を踏みにじったこと、そして、君の未来を奪おうとしたこと……。どんな言葉を尽くしても、償いきれるものではないと分かっている。だが、それでも…心から、謝罪させてほしい。本当に…申し訳なかった」
そう言うと、ライアスはその場に膝をつき、深く、深く頭を下げた。一国の王太子が、かつて婚約者だった平民(今はそうではないが)のパン屋の娘に、地面に額をこすりつけんばかりに。
フィオナは、その姿に息をのんだ。驚きと、そして、長年心の奥底に仕舞い込んでいた何かが、静かに溶けていくような不思議な感覚。
彼女は、ゆっくりと立ち上がり、ライアスの前に進み出た。
「ライアス殿下…。もう、お顔をお上げくださいませ」
その声は、震えていなかった。穏やかで、そしてどこまでも澄んでいた。
「過去は、過去ですわ。確かに、あの時は…本当に辛く、悲しく、どうしようもない絶望を感じました。一時は、全てを憎んだことさえありましたわ」
フィオナは、そこまで言うと、ふっと息を吐き、そして、柔らかな笑みを浮かべた。それは、心の底からの、本物の笑顔だった。
「でも…あの出来事があったからこそ、今の私があるのです。あの絶望があったからこそ、私は自分の本当にやりたいことを見つけ、自分の足で立つ勇気を持つことができましたの」
彼女は、自分のエプロンを誇らしげに撫でる。
「私には、この『アトリエ・フィオナ』という道がございます。 ここで、エリィや、ルーカスや、マルセルのような大切な仲間たちと共に、たくさんの人を笑顔にできるパンを焼き続けること。それが、今の私の何よりの幸せであり、誇りなのですわ。だから…もう、お気になさらないでください」
その言葉には、微塵の恨みも、偽りもなかった。ただ、全てを受け入れ、乗り越えた者の、清々しいまでの強さと優しさがあった。
ライアスは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、驚きと、そして…涙が浮かんでいた。
「…そうか。君は、本当に…本当に強くなったのだな。そして、自分の道を、自分の手で、こんなにも輝かしいものにしたのだな…」
彼の顔には、安堵と、どこか寂しさと、そしてフィオナという人間への、新たな、そして深い尊敬の念が入り混じった、複雑な表情が浮かんでいた。二人の間に長年横たわっていた、見えないわだかまりが、春の雪解けのように、静かに、しかし確実に解けていくのを感じた。
その頃、東屋から少し離れた茂みの中では…
「お、おい、フィオナ、泣かされてないだろうな!? ライアスめ、もしフィオナに指一本でも触れてみやがれ、俺のこの正義の鉄拳が…うぐっ!」
ルーカスが、例によって双眼鏡を構え、興奮のあまり立ち上がろうとした瞬間、マルセルによって冷静沈着に羽交い締めにされていた。
「…ルーカス様、もう少しお静かにお願いいたします。お嬢様と殿下の大切なお話の音声記録(なぜか超高性能集音マイクまで装備している)に、貴方様の野太いお声が混入してしまいますので」
「フィオナ様と王子様…なんだか、とってもいい雰囲気ですぅ~! まるで物語の挿絵みたい…!」
エリィは、頬を赤らめ、両手を胸の前で組んでうっとりとしている。その手には、いつの間にかフィオナのために焼いた「王子様との仲直り祈願・特製ハート型クッキー(ローズヒップ入り)」が握られていた。
東屋では、穏やかな時間が流れていた。
「君のパンは、本当に素晴らしい。父上も、そして私も…君のパンに救われたのだと思う」
ライアスは、立ち上がり、改めてフィオナに向き直った。
「友人として…いや、一人の人間として、これからの君の活躍を心から応援している。何か困ったことがあれば、いつでも私を頼ってほしい」
それは、元婚約者としてではなく、新たな関係の始まりを告げる言葉だった。
フィオナは、にっこりと微笑んで頷いた。
「ありがとうございます、ライアス殿下。そのお言葉、心に刻んでおきますわ」
ライアスと別れたフィオナは、清々しい気持ちで「アトリエ・フィオナ」への道を歩んでいた。空はどこまでも青く澄み渡り、風が運んでくるのは、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、新しい季節の訪れを告げる花の香り。
彼女の心には、新たなパンのアイデアと、これから始まるであろう、さらに輝かしい未来への希望が、まるで春の陽光のように溢れていた。
過去を乗り越え、自分の足でしっかりと大地を踏みしめるフィオナの物語は、優しく、そして力強い余韻を残して、一つの大きな区切りを迎え、そしてまた、新たな章へと続いていくのだった。




