第30話 王宮に響く喝采と、涙味の「合格」宣言
審査員たちが協議を終え、厳粛な面持ちで大広間に戻ってくると、会場の空気はまるで張り詰めた弦のように、緊張で満ち満ちていた。国王陛下がゆっくりと立ち上がり、その威厳ある声が響き渡ると、全ての視線が玉座へと注がれる。フィオナは、隣で(いつの間にか王宮の庭から駆けつけ、侍女に扮して潜り込んでいた)エリィの手を固く、固く握りしめていた。
「本日の『味比べの催し』、誠に見事なパンの数々であった。参加した全ての職人たちの情熱と技術に、まずは心からの称賛を送りたい」
国王陛下は、まず参加者全員の健闘を温かく労った。そして、いくつかのパンに特別賞や優秀賞が授与されていく。素晴らしいパン、独創的なパン、伝統を守り抜いたパン…。次々と名前が呼ばれる中、フィオナの名前はまだない。
ルーカスは(庭の木の上から双眼鏡で中の様子を窺いつつ)「おいおい、どうなってやがるんだ…フィオナの名前はまだかよ!」と青ざめ、マルセルは(なぜか会場の隅で給仕係に完璧に成りすましながら)冷静に「…まだです。しかし、国王陛下の表情から察するに、何か特別な発表があるやもしれません」と懐中時計の秒針を追っている。
そして、ついに国王陛下が、ひときわ優しい眼差しでフィオナの方を見据え、こう切り出した。
「…そして、本日、我々審査員一同の心を最も深く揺さぶり、パンというものの可能性を改めて示してくれた作品があった」
会場が、息をのむ。
「それは、アトリエ・フィオナ、フィオナ・ヴィルヘルム嬢の『ルナ・エスペランサ』である!」
その瞬間、フィオナの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。エリィは「フィオナ様ー!」と叫んでフィオナに抱きつき、二人でわんわん泣きじゃくる。ルーカスは木から落ちそうになりながら「よっしゃあああ!」と雄叫びを上げ、マルセルは…さすがのマルセルも、その瞬間だけは眼鏡をそっと外し、ハンカチで目頭を押さえていた。
国王陛下は続けた。
「このパンには、順位や賞といった形では評価しきれぬ、特別な力がある。それは、食べる者の心に寄り添い、希望の光を灯すような、魂のこもった味わいだ。よって、フィオナ・ヴィルヘルム嬢には、この度の『味比べの催し』において、最高の栄誉である『王家特別賞』を授与する!」
王家特別賞――それは、通常の優勝よりもさらに名誉ある、この日のために特別に設けられた賞だったのかもしれない。
フィオナが、まだ涙で濡れたままの顔で、驚きと感謝で言葉も出ずに立ち尽くしていると、ライアス王太子がゆっくりと彼女の前に進み出た。その表情は、かつてないほど穏やかで、そして真摯な光を宿している。
彼は、周囲の貴族たちにもはっきりと聞こえるような、しかしフィオナの心に真っ直ぐ届く声で言った。
「フィオナ・ヴィルヘルム。君のパンは……見事だった。私の、いや、我々全ての期待を遥かに超える、素晴らしいパンだ。君のパン職人としての才能、そしてその真摯な姿勢に、私は心からの敬意を表する。そして、かつての私の過ちを…深く、謝罪したい」
ライアスは、そこで一度言葉を切り、そして、力強く宣言した。
「この『ルナ・エスペランサ』、そして君のパン屋『アトリエ・フィオナ』は、私が保証する。王都一のパン屋として、文句なしの――合格だ!」
その言葉と共に、彼が自ら拍手を始めると、それに呼応するように、国王陛下も、リリアンヌ嬢も、そして会場中の貴族たちからも、万雷の拍手が巻き起こった。それは、フィオナの努力と才能が、ついに公の場で認められた瞬間だった。
その頃、会場の隅では…
「ノン!ノン!ノン!ありえないデストー! ボクの芸術的かつ前衛的、そしてちょっぴり退廃的な『銀河系パルフェ・ド・パン・ノワール』こそが至高の存在! この国の美食レベルは、やはり終わっているネー!」
ジャン・ピエール・デュポンが、床に手をつき、天を仰いで一人で悲劇のヒロイン(?)を演じている。その周りには、いつの間にか彼のパンのファンになったらしい数人の貴婦人が「デュポン様、お気を確かに!」「あなたのパンは、私たちにはちゃんと分かりますわ!」と慰めているが、彼の耳には届いていないようだ。
レオン親方は(やはり、会場の柱の陰からこっそり全てを見届けていた)、そっぽを向きながらも、その口元には、誰にも気づかれないような、ほんの僅かな満足げな笑みが浮かんでいた。「…ふん、まあ、まだまだひよっこだがな。少しはマシなパンを焼けるようにはなったか」
フィオナは、溢れる涙を何度も拭いながら、審査員席、そして応援してくれた全ての人々に向かって、深々と、本当に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……私のパンが、ほんの少しでも皆様の心に届いたのなら……これ以上の、幸せはございません」
その姿には、かつての「悪役令嬢」の影はどこにもなかった。そこには、確かな自信と誇り、そしてパンへの深い愛情に満ちた、一人の素晴らしいパン職人、フィオナ・ヴィルヘルムが立っていた。
「試食対決」が終わり、興奮冷めやらぬ王宮を後にするフィオナ。ライアス王太子は、帰り際に彼女にそっと近づき、「後日、改めて君と話がしたい。個人的に…伝えたいことがあるんだ」と、真剣な眼差しで告げた。それは、彼自身の本当の気持ち、そしておそらくは婚約破棄の真相を伝えるための、大切な約束の言葉のようにフィオナには聞こえた。
アトリエ・フィオナに戻ると、ルーカス、マルセル、そしてエリィが、店の前で今か今かとフィオナの帰りを待ち構えていた。そして、彼女の姿を見るなり、まるで子供のようにはしゃぎながら、盛大な(そしてもちろん手作りの)ささやかな祝勝会を開いてくれたのだった。
フィオナのパンは、王都中にその名を知らしめた。そして彼女の人生は、この日を境に、新たな希望の光に照らされ、大きく、そして温かく動き始める。
路地裏の小さなパン屋から始まった物語は、まだ終わらない。むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない。




