第27話 王子様の挑戦状と、パン職人の魂(と胃薬)
「――貴族たちが注目する中での、真剣勝負だ」
ライアス王太子の穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持つ提案に、アトリエ・フィオナのブースは一瞬、パン生地が発酵する音さえ止まったかのような静寂に包まれた。
ルーカスは眉間に深い皺を刻み、「おい、てめえ、またフィオナを厄介事に巻き込む気か!」と今にも飛びかからんばかりの形相だ。マルセルは冷静沈着な表情を崩さず、しかしその頭脳は既にこの「味比べの催し」のメリット・デメリット、そしてライアス王太子の真意について高速で分析を開始している。エリィは、ただただフィオナの顔を、心配と期待が入り混じった瞳で見つめている。
フィオナは、目の前の元婚約者を見つめ返した。かつての冷酷な青年ではない。そこには、何かを真剣に願い、そしてフィオナの力を信じようとしている一人の男の姿があった。
過去の屈辱が消えたわけではない。貴族社会への苦手意識も残っている。だが、それ以上に、パン職人としての血が騒ぐのを感じていた。自分のパンが、どこまで通用するのか試してみたい。そして、ライアスが差し伸べてきたこの手を、今度は振り払わずに取ってみるのも…悪くないのかもしれない。
短い葛藤の後、フィオナはゆっくりと、しかしはっきりとした口調で答えた。
「…そのお話、謹んでお受けいたします、ライアス殿下。私のパンが、どのような評価を受けるのか、この目で、この舌で、そしてこの心で、確かめてみたいと思います」
その言葉に、ライアスは安堵したように、ふっと息を吐いた。その表情は、フィオナにはほんの少しだけ、嬉しそうに見えた。
「感謝する、フィオナ。君ならそう言ってくれると信じていた」
そして、彼は味比べの催しが三週間後に王宮の大広間で行われること、審査員には国王陛下はもちろん、王族縁戚の舌の肥えた貴族たち、さらには隣国からの美食家として名高い特使も加わること、そして参加者は王都でも指折りのパン職人や宮廷料理人たちであることを告げた。それは、まさにパン職人にとって最高の檜舞台であり、同時に最も過酷な戦場でもあった。
ライアスと、彼にどこかぎこちなく寄り添うリリアンヌ嬢が去った後、アトリエ・フィオナのブースは、再び(ある意味、先ほどとは違う種類の)嵐に見舞われた。
「おい、フィオナ!本当にいいのか!? あいつ、絶対何か裏があるぞ!お前をまた利用しようとしてるんじゃないだろうな!」
ルーカスが、心配と怒りでフィオナの肩を掴んで揺さぶる。
「まあまあ、ルーカス様、落ち着いてください。フィオナ様がお決めになったことですし…」
エリィがなだめるが、彼女の声も少し震えている。
「…これは、お嬢様とアトリエ・フィオナにとって、最大の試練であり、そして最大の好機となりましょう。このマルセル、命に代えてもお嬢様を勝利へと導きます。まずは、想定される対戦相手のパン職人リスト及びその得意とするパンの傾向、過去のコンテストでの受賞歴、さらには彼らの私生活における弱点やスキャンダルまでを徹底的に調査し、報告書として提出いたしますので、少々お時間を…」
マルセルは、いつものように冷静に、しかしその瞳の奥には確かな闘志を燃やして、既に分厚い手帳に何かを書き殴り始めている。その情報収集能力と分析力、そして時折垣間見える手段を選ばなさは、もはや執事の域を遥かに超えていた。
その日の夕方、フィオナはレオン親方の元を訪れ、事の次第を報告した。
レオンは、腕を組み、目を閉じて黙って聞いていたが、やがてカッと目を見開き、フィオナの頭に拳骨を落とした(もちろん、寸止めだが)。
「この大馬鹿弟子が! 王宮の猿回しにまんまと乗せられおって! そんなもんにうつつを抜かしてる暇があったら、パン生地の一つでも多くこねろと言ったはずだ!」
いつもの雷が落ちる。しかし、フィオナはもう怯まない。
「ですが親方、私は逃げたくないのです。私のパンで、勝負がしたいのです」
その真っ直ぐな瞳に、レオンは一瞬言葉を失い、そして、ふいと顔をそむけた。
「…ふん、勝手にしろ。だがな、もしそこでみっともねえパンなんぞ焼いて、俺の顔に泥を塗るようなことがあったら…その時は、本気で破門だからな。覚えておけ」
それは、彼なりの最大限の激励であり、弟子への深い信頼の証でもあった。帰り際、マリーさんがこっそりフィオナに「親方ね、さっき『あの小娘なら、あるいは…』なんて呟いてたのよ。頑張ってね!」と耳打ちしてくれた。
かくして、大博覧会の賑わいもそこそこに(もちろん、日々の営業はエリィとルーカス、そして時々マルセルの完璧なサポートで大盛況だったが)、アトリエ・フィオナでは「打倒・王宮のパン(仮称)」と銘打った極秘プロジェクト(?)が始動した。
夜な夜な、店の奥の工房では、フィオナを中心に、ルーカス、マルセル、エリィが額を寄せ合い、ああでもないこうでもないと喧々囂々の作戦会議が開かれる。
「どんなパンを出すべきか? やはり、国王陛下も絶賛した『太陽の恵みブレッド』をさらに改良するか?」
「いや、それではインパクトに欠ける!ここは一つ、審査員の度肝を抜くような、斬新なパンで勝負だ!」とルーカス。
「それならば、マルセル様が調べてくださった、審査員の皆様の好みを分析して、最大公約数的なパンを…」とエリィ。
「いえ、お嬢様の独創性を最大限に活かしつつ、かつ伝統的な製法にも敬意を払った、気品と革新性を兼ね備えたパンこそが…例えば、古の文献に記された『不死鳥の涙を練り込んだ黄金パン』の再現などは…」とマルセル。
フィオナは、みんなの意見に耳を傾けながらも、頭の中は真っ白になったり、逆に奇抜すぎるアイデア(例えば、ライアス王太子の顔を模した、愛情たっぷりあんパンとか、審査員一人一人の星座をかたどったフォーチュンクッキーパンとか)が次々と浮かんでは消え、そのたびにエリィに「フィオナ様、それはちょっと…メルヘンが過ぎるかと…」と顔を赤らめながら止められたり、ルーカスに「審査員を驚かすどころか、ドン引きさせる気か!」と腹を抱えて笑われたりするのだった。
そんな中、マルセルが試食と称してルーカスが提案した激辛唐辛子入りパンを一口食べ、表情一つ変えずに「…ルーカス様、少々お水と、それから念のため胃薬をいただけますかな」と静かに呟いた事件は、アトリエ・フィオナの伝説として語り継がれることとなる。
大博覧会は連日大盛況。アトリエ・フィオナのパンは多くの人々に愛され、その評判は日増しに高まっていく。
その喧騒の傍らで、フィオナは来るべき「試食対決」に向けて、特別なパン――自分のパン職人としての全てを注ぎ込んだ、過去と現在、そして未来を繋ぐ、希望のパン――の構想を、少しずつ、しかし確実に練り上げていく。
それは、まだ誰にも見せたことのない、フィオナだけの秘密のパン。
決戦の日は、刻一刻と近づいていた。




