第21話 太陽のパンと星屑の夜会、そして路地裏のパン屋は…
国王陛下のための「太陽の恵みブレッド」をライアス王太子に託してから数日後。アトリエ・フィオナの小さな扉が、いつになく厳かな音を立てて開かれた。入ってきたのは、先日よりも幾分晴れやかな表情をしたライアス王太子その人だった。
「フィオナ・ヴィルヘルム。君に、父上からの言伝だ」
緊張するフィオナ、そして固唾を飲んで見守るエリィ、ルーカス、マルセルの前で、ライアスは静かに語り始めた。
「父上は、君のパンを『まるで太陽の温もりをそのまま閉じ込めたようだ』と仰せだった。そして、久しぶりにパン皿を空にされ、穏やかなお顔で庭を散策されたそうだ。…礼を言う、フィオナ。君のパンは、間違いなく父上の心を癒した」
そして、ライアスは少し照れたように付け加えた。
「それから…『このパンを焼いた者に、一度会って礼を述べたい』とも仰っていた。近いうちに、正式な形で招待があるだろう」
国王陛下からの、まさかのお召し出しの可能性。フィオナは驚きに言葉を失い、エリィは「ひゃあ!」と小さな悲鳴を上げ、ルーカスは「おいおい、マジかよ…」と天井を仰ぎ、マルセルは「…これで、お嬢様のパンの品質は王家のお墨付きを得たも同然ですな」と冷静に(しかし、その口元は微かに笑みを浮かべて)分析していた。
国王陛下からの思わぬ高評価に、アトリエ・フィオナ一同(主にフィオナとエリィ)が歓喜の舞を踊りそうになるのも束の間、休む間もなく次なる戦いが待ち受けていた。そう、侯爵家の夜会を彩る、数百個の「星屑のプチフール・パン」の大量生産である。
「フィオナ様、こちらの生地、発酵具合はいかがでしょう!」
「ルーカスさん、そちらの焼きあがったパン、どんどん冷まし台へ!」
「マルセル様、次の薪の手配は…って、もう裏口に山積み!? さすがです!」
店の工房は、文字通り戦場と化していた。マルセルがどこからか手配してきた臨時オーブン(なぜか元宮廷料理長の屋敷の庭に放置されていた曰く付きの一品らしい)もフル稼働。フィオナが繊細な感覚で生地を作り、エリィが驚くべき速さと正確さで小さな宝石のような形に成形し、ルーカスが力仕事と焼き上がったパンの運搬、そして試食(という名のつまみ食い)を担当。マルセルは全体の指揮を執りつつ、完璧なタイミングで差し入れの高級紅茶(なぜか常に数種類常備している)と焼き菓子(もちろんブランシュール製)を配り、一同の士気を巧みにコントロールする。
あまりの生産量に、さすがのフィオナもパンク寸前。そんな時、どこからか情報を聞きつけたのか(あるいはマリーさんに「あんた、若いもんが困ってるんだから、ちょっとは知恵を貸しておやりよ!」とでも尻を叩かれたのか)、レオン親方が仏頂面で工房に現れた。
「…ったく、見てられねえな、この素人集団が。大量に同じものを焼く時はな、こうやって生地を少し長めに休ませてだな、窯に入れるタイミングもだな…」
ぶっきらぼうな口調ながらも、そのアドバイスは的確かつ実践的。まるで魔法のように、作業効率が格段に向上した。
「親方…!ありがとうございます!」
フィオナが感謝の言葉を述べると、レオンは「ふん、別に、てめえらのためじゃねえ。不味いパンが夜会に出回って、俺の弟子の評判が落ちたら迷惑だからだ」と、相変わらずのツンデレぶりを発揮して去っていった。その手には、なぜかエリィが「お味見どうぞ!」と無理やり持たせた「星屑のプチフール・パン」の試作品が数個握られていたが。
深夜までの作業が続き、疲れと眠気で一同は限界寸前。フィオナが砂糖と塩を間違えそうになり、ルーカスがパンの数を数えながら立ったまま寝落ちし、エリィが眠気覚ましに歌を歌い始めたものの、その独創的な音程が逆に皆の眠気を誘うという珍事も発生。そんなドタバタ劇を、マルセルが冷静沈着に(しかし、その目には確かな疲労の色と、なぜか満足げな笑みが浮かんでいた)一つ一つ収拾していくのだった。
そして夜会当日。
苦労の末に完成した、文字通り星屑を散りばめたように美しい数百個の「星屑のプチフール・パン」は、マルセルの手配した立派な荷馬車(今回はさすがに鶏や豚は同乗しておらず、代わりに屈強な護衛が数名ついている)で、厳重に侯爵家へと納品された。
フィオナも、パンの説明役として、マルセルが「夜会にふさわしい、しかしパン職人としての矜持も示すデザインでございます」とどこからか調達してきた、控えめながらも洗練された濃紺のドレスに着替え、緊張しながら夜会の会場へと向かった。
侯爵家の夜会は、目も眩むような豪華絢爛さだった。シャンデリアの光がきらめき、美しい音楽が流れ、着飾った貴族たちが談笑している。その一角に設けられたデザートビュッフェのテーブルに、フィオナのパンが並べられた瞬間、会場がどよめいた。
「まあ、なんて可愛らしいパンなの!」
「まるで宝石箱をひっくり返したようだわ!」
貴婦人たちが、次々とパンに手を伸ばす。そして、一口食べるなり、その表情は驚きと喜びに変わった。
「この小さなパンの中に、なんて複雑で豊かな味わいが!」
「甘さだけじゃない、ハーブの香りが鼻に抜けて…素晴らしいわ!」
称賛の嵐。フィオナのパンは、夜会の主役である侯爵夫妻の挨拶よりも注目を集めてしまうほどだった。
夜会の大成功と、それに先立つ国王陛下からの言葉。フィオナ・ヴィルヘルムのパン屋「アトリエ・フィオナ」の名は、もはや王都の片隅の小さな店ではなく、美食家たちの間で知らぬ者のない存在へと変わりつつあった。
店には連日、様々な身分の客がひっきりなしに訪れ、パンは昼過ぎには売り切れてしまうことも珍しくない。フィオナは、パン職人としての確かな充実感と、しかし、そのあまりの評判の高さに少しの戸惑いも感じ始めていた。
そんなある日の午後、店の喧騒が一段落した頃。フィオナは、店の前で、古びた外套をまとった一人の見すぼらしい身なりの老人が、ショーウィンドウの中のパンを、まるで宝物でも見るかのような目つきでじっと見つめていることに気づいた。その老人の瞳の奥には、深い悲しみと、そしてどこか懐かしむような色が浮かんでいるように見えた。
フィオナは、思わずその老人に声をかけようと、店の扉に手をかけた。




