第19話 王子様の頼み事と、パン屋のキャパオーバー!?
「フィオナ・ヴィルヘルム。君に、個人的に頼みたいパンがあるのだが」
ライアス王太子の静かな、しかし有無を言わせぬ声が店内に響き渡った瞬間、アトリエ・フィオナの空気はカチンと凍りついた。
フィオナはもちろんのこと、エリィは目をパチクリさせ、ルーカスは「な、何だと!?」と戦闘態勢に入りかけ、マルセルは表情一つ変えずに王太子の全身をスキャンするように観察し、そして先ほどまで夜会のパンの依頼をしていた侯爵家の家宰に至っては、あまりの衝撃に「へ、へ、へ、殿下!?」とカエルのような声を発して床にへたり込みそうになっている。まさにカオス寸前である。
ライアスは、そんな周囲の動揺などまるで意に介さず、まっすぐにフィオナを見つめている。
「…二人だけで、話せるだろうか」
その言葉に、フィオナはゴクリと唾を飲み込んだ。店の奥にある、あの小さなテーブルしかない。まさか、こんな日が来るとは。
「…かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
フィオナが案内すると、ライアスは貴族らしい優雅な所作で席に着いた。その間、ルーカスは「おい、フィオナに変な気を起こしたら、たとえ相手が王太子だろうと容赦しねえからな!」と小声で(しかし十分聞こえる声で)威嚇し、マルセルは「殿下、お茶のお代わりはいかがでしょうか(そっと録音機能付きの羽根ペンを懐に忍ばせながら)」と完璧なタイミングで現れ、エリィは「わわわ、王子様がお客さんなんて、夢みたいです~!(でも、フィオナ様、大丈夫かな…)」と興奮と心配でそわそわしている。侯爵家の家宰は、まだ隅の方で小さくなっていた。
二人きりになると、ライアスは重々しく口を開いた。
「単刀直入に言おう。私の…父である国王陛下のために、パンを焼いてほしい」
「こ、国王陛下に、ですか?」
フィオナは目を丸くする。予想もしなかった依頼だった。
「ああ。父上は近頃、政務の心労が重なり、すっかり食が細くなってしまわれた。宮廷の料理人たちが腕を振るっても、ほとんどお手をつけようとなさらない。だが、先日君が茶会に出したパン…あれを少しだけお裾分けしたところ、珍しく『これは…』と興味を示されたのだ」
ライアスの声には、父を思う息子の苦悩が滲んでいた。
「だから、頼む。国王陛下が、もう一度食事を心から楽しめるような…そんなパンを、君に焼いてもらえないだろうか。もちろん、これは私個人の、非公式な依頼だ」
その真摯な眼差しに、フィオナはかつての婚約破棄の夜の冷酷な彼とは違う、人間的な一面を見た気がした。
話が終わる頃合いを見計らったかのように、マルセルが「失礼いたします」と入ってきた。その手には、いつの間にかまとめられた「国王陛下の最近のご体調と食の好みに関する詳細レポート(極秘)」が握られている。仕事が早すぎるし、情報源が謎すぎる。
「マルセル…あなたって人は…」
フィオナは呆れながらも、その有能さに改めて感服した。
さて、王太子との密談(?)が終わったところで、フィオナは床にへたり込んでいた侯爵家の家宰に向き直った。
「あの、夜会のパンの件ですが…」
家宰は「は、はいぃぃ!」と飛び上がりそうになる。
「数百個というご注文は、今の私どもの店では正直、お受けするのが難しい状況です。ですが、もし種類を絞っていただき、そして…私の信頼できる協力者の手を借りることをお許しいただけるのでしたら、挑戦させていただきたいと存じます」
フィオナの言葉に、家宰は顔を輝かせた。
そして、再びライアスに向き直る。
「国王陛下のためのパン…謹んでお受けいたします。しかし、それは私のやり方で、私の心を込めて作らせていただきます。宮廷風の華美なものではなく、素朴で、滋味深いパンになるやもしれませんが、よろしいでしょうか?」
パン職人としての矜持を込めたフィオナの言葉に、ライアスは静かに頷いた。
「君のパンならば、きっと父上の心にも届くだろう。頼んだぞ、フィオナ」
その声には、確かな信頼が込められていた。
話がまとまったところで、エリィが「あ、あの!王子様!せっかくですから、うちのパンも召し上がっていきませんか?このミルクパンはふわふわで、食べるととっても幸せな気持ちになるんですよ!」と、満面の笑みでバスケットいっぱいのパンをライアスの前に差し出した。
ライアスは一瞬面食らったような顔をしたが、エリィの屈託のない笑顔に毒気を抜かれたのか、促されるままにミルクパンを一つ手に取った。そして、一口。
「……これは…確かに、優しい味がするな」
その時、彼の口元に、ほんの僅かだが、柔らかな笑みが浮かんだのを、フィオナは見逃さなかった。
この一連の騒動は、すぐにレオン親方の耳にも入った。マリーさんから一部始終(エリィが興奮して話した内容と、マルセルが冷静に分析した情報を加味したもの)を聞いたレオンは、鼻を鳴らしてこう言ったという。
「…ふん、あの小娘、ついに王太子まで手玉に取りおったか。まあいい。どんなお偉いさんのためのパンだろうと、焼くもんは変わらん。せいぜい、へまをして俺の顔に泥を塗るんじゃねえぞ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その声はどこか弟子を誇るような響きを帯びていたらしい。
ライアス王太子は、いくつかのパンを土産に(代金はマルセルが丁重に、しかしきっちりと請求した)、満足げな表情で店を後にした。侯爵家の家宰も、フィオナからの前向きな返事に喜び勇んで帰っていった。
後に残された「アトリエ・フィオナ」には、国王陛下のためのパンと、侯爵家の夜会のパンという、かつてないほど大きな二つの挑戦が、ずっしりとした重みと共に横たわっていた。
しかし、フィオナの目には、不安よりも、パン職人としての新たな情熱の炎が、より一層強く燃え上がっていた。
「さあ、みんな!やるべきことが山積みですわよ!」
その声は、いつになく弾んでいた。