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第11話 我が家のオーブン様と、パン屋の「顔」探し

「アトリエ・フィオナ」(いつの間にかルーカスがそう呼び始め、フィオナもまんざらではない様子で受け入れている)の心臓部、真新しい(ようにピカピカに磨き上げられた中古の)薪オーブンに、初めて火が入った。ゴォウ、という力強い音と共に、窯の内部が赤々と燃え上がり、フィオナは緊張と期待で胸がいっぱいになるのを感じた。まるで、新しい生命が宿ったかのようだ。


(これが、私のオーブン……私の相棒なのね)


 どんなパンを最初に焼くべきか。フィオナは数日悩んだ末、レオン親方から教わった基本に忠実に、そして自分の想いを込めやすい素朴な丸パンを焼くことに決めた。飾り気はないが、小麦の味がしっかりと伝わる、日々の食卓に寄り添えるようなパン。それが、フィオナが目指すパンの原点だった。

 生地をこね、発酵させ、成形する。ブランシュールの工房とは違う、自分の店の空気、自分の手の感覚。薪オーブンの火加減も、レオン親方のところのものとは微妙に違う。フィオナは五感を研ぎ澄ませ、オーブンと対話するようにパンを焼き上げた。


 そして、ついに最初の「我が家のパン」が焼き上がった。

 香りは良い。焼き色も悪くない。ルーカスとマルセルが、固唾を飲んで見守る中、フィオナはパンをスライスし、まず自分が一口。

「……美味しいわ。でも……」

 次にルーカス。「うん、美味いぞ! ブランシュールで焼いたやつと遜色ない……いや、ちょっと違うか? なんというか、こっちの方が……優しい?」

 最後にマルセル。「確かに、ブランシュール様のパンのような力強さとはまた異なる、繊細で温かみのある風味でございますな。ですが、少しだけ…火の通りに斑があるような…?」

 三者三様の感想。決して失敗ではない。だが、何かが違う。新しいオーブンの癖を完全に掴むには、まだ時間が必要なようだった。フィオナは、改めてパン作りの奥深さを痛感した。


 そんな時、店の外からガラガラと音がして、ひょっこり顔を出したのはマリーさんだった。そして、その背後には、なぜか腕を組んで仏頂面をしたレオン親方の姿が。

「フィオナちゃん、新しい窯の火入れだって聞いたから、お祝いに来たよ! ……ほら、おじいさんも、何か言ってあげなさいな」

 マリーさんに背中を押され、レオンは不承不承といった体で店に入ってくると、フィオナが焼いたばかりのパンを手に取り、じろりと一瞥。そして、ひとかけらを無言で口に放り込んだ。

 長い沈黙の後、レオンはフィオナに向かって言った。

「……ふん。まあ、薪の無駄遣いにはならん程度の出来だな。お前の新しいおもちゃにしては上出来だ」

「おもちゃじゃありません! 私の大切なオーブン様ですわ!」

 フィオナがぷうっと頬を膨らませる。

 レオンはニヤリと笑うと、続けた。

「だがな、フィオナ。お前のパンには、まだ『顔』がねえな」

「か、顔、ですか?」

「そうだ。誰が焼いたか一目で分かるような、お前だけの印。お前の店の『顔』となるパンだ。それを見つけねえ限り、ただのパン焼き人形のままだぞ」

 謎の言葉を残し、レオンは「じゃあな」とマリーさんと共に風のように去っていった。いつもながら嵐のような人である。


「パンの『顔』……」

 フィオナは、レオンの言葉を胸に刻んだ。

 店の開店準備は、いよいよ大詰めを迎えていた。ルーカスがデザインした素朴で可愛らしい看板(フィオナが提案した「パンの形をした巨大な黄金の彫刻」は、ルーカスとマルセルによって全力で却下された)も取り付けられ、マルセルがどこからか調達してきたアンティーク調のテーブルと椅子が並べられると、殺風景だった店内も、少しずつ温かみを帯てきた。

「お嬢様、店の名前は『アトリエ・フィオナ』で正式に登録いたしました。メニュー表の試案も作成しましたが、いかがいたしましょう?」

 マルセルは、もはや有能な執事というより、敏腕経営コンサルタントの風格さえ漂わせている。その手には、美しいカリグラフィーで書かれたメニュー案と、店の経営計画書(ご丁寧にSWOT分析までされている)が握られていた。

「素晴らしいわ、マルセル! でも、この『フィオナ・スペシャル・ミステリーパン(日替わり)』というのは一体…?」

「はい、お嬢様の芸術的な発想を活かした、お客様にスリルとサスペンスをお届けする一品でございます」

「却下ですわ!」


 そんなある日、店の前でパンの焼ける良い香りに誘われたのか、一人の村娘が遠慮がちに中を覗き込んでいた。歳の頃はフィオナより少し下だろうか。大きな麦わら帽子を被り、素朴だが清潔なワンピースを着ている。

 フィオナは、勇気を出して声をかけた。笑顔はまだぎこちないけれど。

「あ、あの…何か御用でしょうか?」

「わぁっ! ご、ごめんなさい! あまりにいい匂いがするから、つい……」

 娘は顔を真っ赤にして俯いてしまった。その初々しい様子に、フィオナは思わず微笑んでいた。

「もしよかったら…試作品ですけれど、少し召し上がっていかれませんか?」


 ついに、店の開店日が決まった。一週間後だ。

 フィオナは、自分の店の「顔」となるパンを何にするか、そして、どんな店にしていきたいか、改めて想いを巡らせる。レオン親方の言葉、マリーさんの優しさ、ルーカスの友情、マルセルの忠誠心、そして、あの名も知らぬ村娘の笑顔。たくさんの想いが、フィオナの中で一つの形を結ぼうとしていた。


 開店前夜。

 フィオナは一人、ランタンの灯りが揺れる静まり返った自分の店にいた。カウンターに立ち、オーブンを見つめ、テーブルをそっと撫でる。期待と不安で胸がいっぱいだった。

(本当に、私にできるのかしら……)

 そんな彼女の足元に、そっと一通の手紙が差し入れられた。差出人の名前はない。

『フィオナ様 貴女の焼くパンは、きっとたくさんの人を幸せにするでしょう。陰ながら応援しています』

 それは、震えるような、しかし心のこもった文字で書かれていた。

 フィオナは、その手紙を胸に抱きしめた。温かいものが込み上げてくる。

 一人ではない。たくさんの人に支えられて、私はここにいる。


「よし……!」

 フィオナは顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。

 明日、私のパン屋が、始まる。

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