第1話 星屑のシャンデリアと、焦げたパンの夢
きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に無数の星屑を散らしている。ここは王城の大広間。今宵は、隣国からの賓客をもてなすための盛大な晩餐会が開かれていた。
絹ずれの音、囁き交わされる笑い声、そして弦楽四重奏の甘美な調べ。どこを見ても完璧に計算された華やかさが満ち溢れている。だが、フィオナ・ヴィルヘルムにとって、その全てが息苦しい檻のように感じられた。
(……また、始まった)
背筋を伸ばし、公爵令嬢としての完璧な微笑みを顔に貼り付けながらも、内心では深いため息をつく。金糸銀糸で彩られた豪奢なドレスは重く、コルセットは容赦なく彼女の体を締め付けていた。向けられる視線は、値踏みするようなもの、あるいは、どこか怜れむようなもの。そして、そのどちらもが、フィオナの心を静かに削っていく。
「フィオナ・ヴィルヘルム嬢」
凛とした、しかしどこか冷ややかな声が、喧騒を一瞬にして切り裂いた。声の主は、この国の王太子、ライアス・エル・クレイスト。フィオナの婚約者である、はずの男。
音楽が止み、囁き声が消え失せる。全ての視線が、壇上に立つライアスと、その真正面に立つフィオナへと突き刺さった。ライアスの隣には、可憐な花のように微笑む男爵令嬢、リリアンヌの姿があった。最近、王太子がことさら目をかけていると噂の令嬢だ。
フィオナは努めて平静を装い、カーテシーをしようとした。だが、ライアスの次の言葉が、彼女の動きを凍らせる。
「本日をもって、貴女との婚約を破棄する」
シャンデリアの光が、ぐらりと歪んだ気がした。耳鳴りがする。周囲の貴族たちが息を呑む気配。父であるヴィルヘルム公爵が、隣で微かに呻いたのが分かった。
「理由は、貴女の公爵令嬢らしからぬ振る舞い、そして何より、我が国の未来にとって、もはや貴女との婚姻に政治的価値を見出せなくなったためだ」
淡々と、感情の欠片も感じさせない声。まるで、古くなった調度品を処分するとでも言うように。
フィオナは、唇を噛みしめた。言い返したい言葉は喉まで出かかっている。公爵令嬢らしからぬ振る舞い? それは、お飾りの人形のようにただ微笑んでいることができず、思ったことを率直に口にしてしまう私の不器用さのことか。政略結婚であることは理解していた。だが、それでも、人としての最低限の尊厳は……。
「そ、そんな……フィオナ様が……」
「やはり、あの噂は本当だったのね……リリアンヌ様に嫉妬して、陰で酷いことを……」
「ヴィルヘルム公爵家も、これで終わりかしら……」
ひそひそと、しかし確実にフィオナの耳に届く悪意の囁き。いつからだろうか、「悪役令嬢」などという不名誉な呼ばれ方をするようになったのは。笑顔を作るのが苦手で、思ったことをつい口にしてしまう。ただそれだけで、私は冷酷で、傲慢で、嫉妬深い女だと断じられた。弁解しようとしても、その言葉はいつも巧みに捻じ曲げられた。
ライアスの碧眼が、フィオナを射抜く。その瞳の奥に、ほんの一瞬、苦渋のようなものがよぎった気がしたが、それもすぐに氷のような無表情に覆い隠された。彼は何も言わず、隣のリリアンヌ嬢に優しく微笑みかける。その光景が、フィオナの胸を鋭く抉った。
(ああ、そう……これが、私の現実)
力なくうつむいたフィオナの脳裏に、ふと、全く別の光景が蘇った。
それは、前世の記憶の断片。
薄暗いけれど温かな工房。小麦粉の甘い香り。窯の中でふっくらと膨らんでいくパン生地。素朴な木のテーブル。パンを頬張り、綻ぶ人々の笑顔。
そうだ。私は、パンを焼いていた。
不格好でも、少し焦げてしまっても、そこには確かな温もりと、誰かの「美味しい」という言葉があった。
貴族社会の煌びやかさも、婚約者の心ない言葉も、今は遠い。ただ、あの焼きたてのパンの香りだけが、やけに鮮明に思い出された。
それは、絶望の淵に垂らされた、蜘蛛の糸よりもずっと細く、けれど温かい、一条の光のように思えた。
唇の端に、自嘲とも決意ともつかない、微かな笑みが浮かんだ。
「……承知、いたしました」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。もはや、失うものは何もない。公爵令嬢としての体面も、婚約者も、社交界での居場所も。
けれど、もし、あのパンの記憶が本物なら。
もし、もう一度、自分の手で何かを生み出せるのなら。
シャンデリアの星屑が、涙で滲んで見えた。
「悪役」なんて、もう誰にも言わせない。
私は、私の人生を、もう一度この手で始めるのだ。
たとえそれが、華やかな舞踏会のフロアではなく、路地裏の小さなパン屋の片隅だとしても。
フィオナは、最後の力を振り絞って背筋を伸ばすと、ゆっくりと踵を返した。逃げるのではない。新たな始まりへの、小さな、しかし確かな一歩を踏み出すために。
その脳裏には、いつか自分の店で、素朴で温かいパンを焼く自分の姿が、ぼんやりと、しかし確かな輪郭を結び始めていた。