06 ニーナの事情
「――というわけで、これがここ一週間のサリーシュ・アルティア・テストンについての報告書になります」
ニーナの雇い主が、冷たい顔で報告書に視線を落とす。
報告書には、ターゲットがクロード達の前に現れてから今日までの報告が記されていた。
ニーナはクロード個人に仕える密偵だった。情報収集から暗殺まで、命じられればなんでもする。
ピンク色の髪を下ろしたニーナは、快活さが鳴りを潜め主人に似た冷たい表情をしていた。
王子の侍女兼教育係としてのサリーシュの奮闘が書かれた報告書に目を通し終えたクロードは、銀の髪をかき上げため息をついた。
「お前があの女を見逃しさえしなければ、こんな面倒なことはしなくて済んだのだぞ」
実はニーナは、サリーシュが王子と遭遇した時にもその場に居た。
物陰に隠れて、クロードと王子に近づく不審者がいないか監視していたのだ。
そこに近づいてきたのが、サリーシュだった。彼女が二人に近づかないよう無力化させることは簡単だったが、それを見逃したのはサリーシュの目的を探るためだった。
なにせ、彼女の行動は王子の暗殺を企んでいるにしては余りにもお粗末だったのだ。
本当にただ、庭園迷宮に迷い込んだとしか思えなかった。
彼女の不運は、何者かによって王宮と離宮を阻む生垣に穴があけられ、完全に迷い込む形で離宮に入ってしまったことだろう。
その証拠に、試しにニーナが向けた殺気にも、彼女は一切気づかなかった。
もし王子を亡き者にしようという刺客であったなら、ニーナの殺気に気付かなかったはずがない。
そしてその時点で、安直に言えばニーナはサリーシュを見くびっていた。どうせ近づけたところで、クロードに切り捨てられるのが関の山だと、そう考えていた。
そもそもニーナの主人であるクロードは、頭が切れるわりに考えなしな部分がある。
例えば王子が蔑ろにされていると知って、怒りのままにすべての上級使用人を解雇してしまったのはいい例だ。
まともに精査することもなく、謝罪も受け入れず、一方的に解雇を言い渡してしまったのだ。
これでは無用な恨みを買うし、王子の護りも当然手薄になる。大体、無能王子の世話をしたがる貴族などそういないというのに、一体解雇した使用人の後釜をどうするつもりだったのか。
結果的にたまたま迷い込んできたサリーシュが貴族の娘でありながら偶然家政全般に通じていて、なおかつ運のいいことに王子に仕えたいと申し出たからどうにかなったものの、そうでなければどうなっていたか分からない。
一方で、サリーシュの登場は余りに彼らに都合がよすぎた。
だからクロードが彼女を怪しむのは当たり前なのだ。
例えば使用人に紛れ込ませた間諜がクビとなったため、新たに派遣されてきたスパイだったとしても何の不思議もないのである。
ところがあれから一週間、ニーナの監視下にあってもサリーシュは一切尻尾を出すことがなかった。
別に雇い主がいるのならばあらゆる手段を使って外部と連絡を取ろうとするはずだが、彼女が出したのは両親に宛てた手紙一通きりで、それ以外は離宮から外に出ることもなく、出たがる素振りすらない。
なので先ほど渡した報告書も、非常に面白みのないものになっているはずだった。
怪しい動きは全くなし。
命じられた通り王子の世話を焼き、しかも今まで王子付きとなった誰よりも熱心でうまくやっている。
やがて報告書を読み終えたのか、クロードは眉間に皺を寄せて報告書を折りたたんだ。
「お前はどう思う?」
ニーナの主は、サリーシュの評価を決めかねているようだ。
それも無理はない。
彼女がスパイやただの使用人ならともかく、驚くことに自分は人間の持つ魔法の属性が見えるだとか、無能王子には魔力が備わっていると言い出したのだから。
最初はなんという嘘をつくのだと、ニーナは思った。
そしてそれは、クロードだって同じだったはずだ。
ところが実際に、彼女の言う通りにしたところ王子は魔法を発現させてしまった。これは驚くべきことである。
「どうもなにも、実際にあの時王子の指先から出た炎は間違いなく魔法でしたよ」
クロードにも、それは分かっているはずだ。
「それは旦那が一番分かってるんじゃないですか?」
ニーナの問いかけに、クロードは苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「まさか全部の属性を使える人間は、それぞれが打ち消し合って封具を使わなければ魔法が使えないなんて、誰も思いつきもしませんよ。なんとも厄介なことになりましたね」
軽口を叩くニーナを、クロードはぎろりと睨んだ。
「厄介どころではない」
今までどんな高名な治療師にも、異国の学者にも、教会を仕切る大魔法使いにも成せなかったことを、サリーシュは封具一つで容易くやってのけてしまったのだ。
だが喜んだのは王子一人で、クロードは複雑だったに違いない。
なにせクロードは、母を失い父からも見放されたこの甥を自らの養子にして、王族ではなく公爵家の跡取りとして迎え入れる準備を進めていたからだ。
クロードの姉である王妃は、王子が魔力を持たないことを知り儚くなった。父である公爵も、己の孫が魔力を持たないと知ると後ろ盾として十分な責務を果たさなくなった。
可哀相なのは王子である。
王家と公爵家の間の子という高貴な血筋でありながら、貴族に不可欠と言われる魔法を扱う能力に恵まれなかったのだ。王妃は不貞を疑われたし、王族と公爵家の関係にも亀裂が入った。
貴族として王家に仕えるクロードは、この現実を憂いていた。
公爵家にとっても王家にとっても、この状況は非常にまずい。豊かな領地と優れた騎士団を持つグリンダル公爵家は、王にとって味方であればこれ以上頼もしいものはなく、敵であれば国を奪われかねないほどの脅威であった。
ゆえに今まで何度も婚姻を重ね、王家と公爵家は蜜月を保ってきたのである。血脈が途切れた際には公爵家から王が出たこともある。グリンダル公爵家は、リッツン王国にとって、第二の王家と呼ばれるほどの大貴族であった。
公爵家にとって、最も避けなければならないのは王に忠誠を疑われることであった。もし王がグリンダル公爵を疑い公爵家を弱体化するようなことがあれば、公爵家が持つ武力も弱まり外敵の脅威は高まる。それはひいては、国そのものの弱体化に繋がりかねないからだ。
なのでクロードはいっそのこと、カミーユを公爵家の養子とすることで王家への忠誠を示し、なおかつ王子が王位継承権を破棄することで血なまぐさい継承争いから距離を取ろうとしていた。
しかしサリーシュの登場によって、すべてはひっくり返された。
クロードはカミーユを秘密保持のために離宮から出せなくなり、更にはカミーユの能力を公表すべきか、それとも隠し通すべきかという判断を迫られることになった。
もう少し早ければ、せめて王妃が生きている頃ならば、何でもない顔をしてカミーユを王太子に推挙すればよかったのかもしれない。
だが今となっては、そうはいかない。
クロードの姉は死に、父は娘を喪って失意の底にある。
今更カミーユの能力を公表すれば、この国は揺れるだろう。現在カミーユの兄弟間で争われている王冠の行方は、全くの白紙になる。
それは王家に忠誠を誓うクロードにとっても、望むところではないのだ。
「とにかく今は、人員を選んで王子の身の回りを固めるのが先では? 俺一人であのお嬢さんを見張りながらしかも王子に隠れて警備を続けるなんて、流石に限界ですよ」
そう言うと、クロードは少し考えるような顔をした後、口元にうっすらと気味の悪い笑みを浮かべた。
それは女子供が見たら美麗だなんだと騒いだだろうが、主人の厄介さを知るニーナには不気味としか言いようがなかった。
「分かったぞニール。ならば堂々と警備させてやろう。あの屋敷のメイドとしてな」
「はぁ?」
何言ってるんだ。ついに頭が湧いたか。そう言い返したくなった。
なにせニーナは――いや、ニールは立派な男だったからだ。
ピンク色の髪を長く伸ばしているのは女と見せかけて敵を油断させるためだが、まさかこの堅物にメイドをしろなんて命じられる日が来ようとは。
「メイドとしてなら、王子もそう警戒せんだろう。更に二人の近くにいても不自然ではない。どう考えてもお前が適任だ。すぐに増援を送るから、それまでは頼んだぞ」
いたって真面目な表情で、クロードは言った。
冗談でも何でもなく本気なのだと悟ったニールは、変に煽るんじゃなかったと後悔しながら黙ってうなずいた。
こうして、ちょっと力持ちなメイドのニーナが誕生することになったのだった。