幅屋圭太郎は悪鬼を追い出せない1
「名前おしえて」
「いやその前に鼻血出てんじゃねーか! ティッシュ、ティッシュ」
幅屋はすべてのポケットから探り当てようとするが、普段からハンカチも持とうとしない自分を発見し落胆しかける。すると加賀が自らのポケットからティッシュを取り出し、悠長に差し出してくる。
「ちげッ……早く突っ込めよ。ほら!」
ティッシュを奪い、残り枚数に構わず丸め、彼の鼻の両穴に栓をしてやる。
「蛇口……蛇口どこだよ」
制服の上からでもわかる細い片腕を引っ張り、半小学校の敷地内へ入って、ハッと振り向く。半ば強引とはいえ、素直に引っ張られてくれるというか、抵抗がないというか、あまりにも軽く感じて胸がぞわりとした。無理やり腕を引っ張ったばかりに、手にしているのはもげた腕じゃないのかと思わせた。
当然ながら杞憂で終わったが、首がやわらかいのか真横に曲がった頭がくらくらと揺れていた。鼻栓は上からじわじわと赤くなっていくのを見て、歩幅を小さくした。
水道を見つけると手を濡らし、口周りを何度も拭ってやる。加賀はじっとしていて無言だ。鼻先の汚れが落ちると、鬱血していることに気がついた。唇の中にまで鼻血が入り込んでいて、それでは口の中がマズかろうという思いで裏側まで指を突っ込むと、そこには歯形がついている。
「ったく。どうしたんだっつーの。壁に激突でもしたんか?」
「…………岩本さんがなぐった」
「岩本って?」
「六年生の岩本さん」
「なんだお前……上級生にやられたって? 何してそうなるんだっつの」
加賀は表情に色を作ることもなく、顎から水を滴らせながら首をくにゃりと傾げる。質問を理解していないようだった。
「だからつまり……お前が先に、その岩本って奴に、何かしたのか? 殴られる前に」
身振り手振りで問い直すと、加賀は間隔を開けて質問に対する“理解”と、“回想”のまばたきを二回してから、正門の方を指差し「あそこで立ってた」と言う。胸がチクリと痛んだ。
「それはつまり、あの。俺を待ってただけなんだろ? そこで」
彼はこっくりとうなずく。
「じゃあ、じゃあさ、あの。それ以外に心当たりとか……前に岩本って奴に、悪口を言ったことあるとか、変なことしたとか」
慎重に問いかけてみると、加賀はあらゆる方向に視線を向け続けた。一分、いや二分は経過しただろうか。沈黙が続いてようやく彼は口をやわらかに、それなのに無機質に開かせた。
「初めて岩本さんになぐられた時」
「そん時に?」
「初めて岩本さんを知った」
「……は? 殴られるそん時まで、顔も見たことなかったってことなん?」
「……その時まで春日井さんになぐられてたから」
「待て待て待て。そいつも六年生?」
新たな登場人物に混乱する。加賀はうなずく。
「春日井まことさんのお兄さんだから」
「まことって?」
「五年一組の人」
「じゃあ、今までずっと春日井まことの兄貴に殴られてたけど、途中から岩本も入ったってことだよな? そうだろ?」
幅屋は落ち着きを失い、息も浅くなっていく。
「……春日井さんが春日井さんをつれてきて、春日井さんが岩本さんをつれてきた」
「お前が春日井まことってのに何かしたんか?」
だって兄を呼ぶなんて。
また沈黙が流れる。寒気がして、嫌な予感がした。
「春日井さんはあとから増えた」
「増える前は……?」
「富田さんと村木さんのふたり。そのあとに春日井さんと大本さん。そのあとに春日井さんと岩本さんと藤堂さん」
「あいや、あの……」
一気に増えた登場人物。計七人。
「あのさ……な、殴られる他に何されてんの? やられたこと言ってみ?」
恐る恐る聞いた。聞かなければならないと思った。
しばしの“回想”の沈黙が続く。その長さに幅屋はどんどん寒くなってきた。考えたけど特に思い出せなかった、思い当たらなかったと答えてくれることを希望した。
そしてようやく、加賀は答えた。
「足でけられたり、膝でけられたり、頭で頭をぶつけたり、……石を投げられたり、犬のフンを投げられたり、公園のゴミ箱に入れられたり、足を持ってぐるぐる回ってから池に投げられたり、トイレに頭を入れられたり、おしっこをかけられたり、……スライムを食べさせられたり、金魚を食べさせられたり、ナメクジを食べさせられたり、鳩の死体を」
「もう言わんでいい!」
聞くべきではなかった。かろうじて言葉が失わずに済んだことが奇跡なのか。肌が寒い。とても寒い。それだというのに内臓が熱い。チョコレートのように溶けだしそうに熱い。
きっと今受けたのは魔法の呪文だったのだ。相手を状態異常にさせる、毎ターンごとにダメージを与える技なのだ。これを解くにはどうしたら……他の内臓に伝染するまえに該当する内臓を取り出さなければ。
胸をかきむしる。服が邪魔だ。ヒュウヒュウと息が情けないホイッスルのように鳴りだす。このままでは溶けた内臓が口から、鼻から、目から、出そうだ!
「体がかゆいの?」
いけしゃあしゃあと尋ねる加賀の無垢な眼差しが怖い。『何がこわいの?』といつか問われるかもと思うと怖かった。それなのに膝は笑い始めた。
“苦しいのね”
“助けてあげられる”
“さあ、手を――”
定丸が背後霊のように加賀の後ろに立っている。まるで加賀が手を差し伸べているように重なって見える。
「平気そうに見えっけど、お前わかってんのか……?」
「……なにが?」
「い、じ、め! お前いじめられてんの! わかるかっ!?」
声を奮い立たせて問い詰める。相手が誰であろうと弱いところを見せてはならないから。強く生きるために。強い人間であるために。
加賀はぽかんとしている……ようにも見えないこともなかった。「ああもう」と幅屋は頭を抱え熱い溜め息をついた。ここまで間抜けで馬鹿で阿呆で鈍感な奴は生まれて初めて見た!
「ほら胸に手を当てて、考えろ。富田と村木だっけ? いつからいじめられて、原因わかりますかーッ?」
はきはきと声を出せば体内につけられた猛毒の炎が弱まった。肌の冷たさと良い塩梅になった。
「……一年生の時から」
「そんな昔から! 理由は?」
「……わからない」
「だぁー……」
幅屋はずしんと重苦しい頭を垂らすと、ぽたり、と何かが一滴足元に落ちた。
「……鼻血出てる」
ほんのちょっぴり遠慮して残していた、あと一枚のポケットティッシュを加賀は丸める。幅屋から受けた行為を真似る。片方の鼻の穴をふさがれた幅屋はポカンとなった。加賀はまた頭をかしげて考え事をしている。
「……殴られたの?」
「……うん。殴られた」
「誰に殴られたの?」
「……おまえになぐられた。……まほうの呪文でなぐられた」
加賀は考えている。
「いや、うそ。おまえは犯人じゃない。俺のうそでした。俺はうそつきだ」
加賀は考えている。なぜそんな突拍子もない嘘をついたのか考えているのだろう。
「……じゃあ誰に殴られたの?」
「おまえが殴ってないなら、俺が殴ったんだ」
「自分で自分を殴ったの?」
「そうだ」
加賀は考えている。
要はこの人格だ。ぼんやりと無表情で、殴られた後もこの様子。異常なまでにリアクションを見せないからそいつらは面白がって、調子に乗っているのだ。春日井まことは兄にこんな風に誘ったのだろう。面白いおもちゃがあると。
弟お気に入りのおもちゃを見た兄はこう言う。本当に最後まで泣かないか試そう。どれだけ耐えられるか試そう。おもちゃなんだから、何をやっても問題ない。人間サンドバッグだ。いや、人間ですらない。こいつは妖怪だ。
「うぎぎぇぎぇ」
喉元を押さえた。嫌な声が出た。蛇口を一杯にひねった。
「うぎぎぇぎぇぎぇぎぇぎぇぎぇぎぇぎゃぎぃあ」
これこそ、妖怪の唸り声ではないのか。始末するべき悪鬼の笑い声ではないのか。
「……どうして吐いているの?」
加賀は見下ろしている。口の中が酸っぱい。これは溶けた内臓なのか。体内に棲みついている悪鬼の糞尿なのか。
口の中に手を突っ込む。奥へ、もっと奥へ、喉まで掻き込む。
「おぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
間違いない。悪鬼が棲みついているのだ。
「ふんッ! ふんッ! ふんッ! ふんッ! ふんッ! フンッ! ウンッ!」
叩き出さなければ。これ以上の長居は無用だ。
「ウンッ! ウンッ! グゥンッ! ぐぅんッ! グぐぅんッ!」
こうかはばつぐんだ。口からも鼻からも目からもどんどん悪鬼の煮汁が湧き上がる。
増岡もいつもこんな気持ちだったのだろうか。何がビックリって、自分も同じことをしていたかもしれないからだ。
俺はそんなことやってない、だからそいつらの方が重罪! だ、なんて、甘ったれたことはこれっぽっちでも思うことは許されない。そいつらはやっていなくて、自分がやってしまっていることもあるに違いない。
悪鬼を叩き起こすたびに過去の行いが途切れ途切れに脳内で再生される。都合よく忘れていたこともすべて。
(俺はそいつらと一緒なんだ)
もうこれ以上はだめだ。同じ種族ではいられないのだ。転職ってやつだ。
(俺は人間に戻るぞ!)
悪鬼さえ体内から出せれば。すべて叩きだすことができれば。悪鬼の本体さえ、最後に出てくれさえすれば。




