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幅屋圭太郎は仮病で休めない

 久しぶりに目覚めのいい朝を迎えた。いつもより目覚まし時計が鳴る時間を十五分早めたのに不快感はなかった。本当はもっと時間に余裕を持たせたかったが、疑いの目を持たれたくはなかったので、幅屋にとってこれが限界だった。


 舞前に告げた通りに体調を崩したふりをしてみる勇気は出せず仕舞い。懸命に働く両親の裏で、実は仮病で家から抜け出していたとバレたらと思うと。どうせあとで別の嘘をつくことになるのに。

 どうせ失望されて怒鳴られて、ついでにビンタでも食らわされるとしても。寄り道して遅刻したからという理由での方が、幅屋にはしょうがないクソガキらしくてまだマシな気がしたのである。


 そんなことを考えても不快感が胸に現れなかったのは、野々村の様子の確認が増岡のことよりも優先度が上がってしまったせいなのだろうか。「あんたいつもより起きんの早いね」と母親に目を丸くされても、疑われなかったことに安堵したりはしなかった。いつもより早起きだった。ただそれだけのこと。幅屋の心は平常であった。


 いつもより早めに、そしていつものように見送られて、菜の花小学校ではなく野々村のいる(はした)小学校に登校した。駅は初めてだったが、切符を買うのも、いつどの電車に乗るのかも駅員に声をかけることで解決した。ランドセルを背負っていたので、駅員も引っ越してきて初日の登校だと勝手に勘違いしてくれた。


 運よく席に落ち着くことができ、ランドセルを机にして揺られながら宿題をちゃちゃっと終わらせてしまう。筆圧でプリントがボコボコになったが気にしない。去年は律儀にやる日の方が珍しかったが、担任が崇城になった以上やらなければまずい。


 中途(ちゅうと)駅で下車し、歩くと塔が見えてきた。スクールゾーンのコミュニティー道路の先で大勢の児童が門を通っているのを発見した。幅屋は看板を確かめる。


 黒い三角屋根で赤いレンガのきれいな校舎で、一見学校だと気がつかなかった。八角形の時計塔を見上げると、朝礼には余裕があった。


「今日の朝自習は英語かなぁ?」


 低学年らしい子たちの楽しげな会話を耳にして驚いた。この学校では既に英語を習わせているらしい。


 ここで、幅屋はしまったと思った。菜の花は私服だが、半では制服らしい。誰しもが黄色の帽子をかぶり、紺色の上下を着こなしている。これでは自分は悪目立ちではないか。


 正門の影で困り果てていると感じたことがない視線をひたすら感じ、一人の半小学校の児童が近づいてくるのを確認する。

 小柄なその少年は無表情で、目に活気がなかった。胸の橙色の名札には『加賀』とある。さっきの低学年らしき子は黄色の名札だったので、学年ごとに色分けされているようだ。


「な、なんだよ」


 幅屋は思わず踏ん反り返る。意味を探ろうと、吸い込まれそうに感じてしまうほどに真っ黒な瞳と見つめ合うと、半小学校の彼は口を小さく開かせる。


「どうして制服着てないの?」


 ぼそり、と言った。


「べ、別にいいだろ。俺はここの生徒じゃねーし!」


 なぜここで偉ぶる必要があるのか。これで菜の花小学校の児童は最低だと評判になったらどう責任を取るつもりなのか。幅屋は肩の力を落とす。


 やたら深く澄んだ色の眼差し。“疑問”にしては見たことがない。これは純粋に疑問に感じていただけなのだろうか。それにしては、怖くなってしまうくらいに単調の色。そういえば、いつか読んだ漫画のキャラクターでこんな表現をされていたことがあった。

 無垢(むく)。ああ、これだ。これは“無垢”の眼差しなのか。


「………………そう」


 加賀は“納得”して正門を抜け、悠々とアプローチを歩いていく。あっと幅屋は彼を追い、肩をつかんだ。


「なあ、お前何年生?」

「……五年生」

「ちょうどよかった! お前、野々村っていう女子知ってるか?」


 加賀は視線を左へ、斜め左下、斜め右下、右、と移動させていく。やがて“思考”から何か“思い当たる”人が浮かんだようである。


「…………野々村直花(なおか)さん?」

「そうそう! なんだよ、知ってるなら知ってるって言えよ」


 もしかして怖がっているのか。そういう風にはまったく“見えない”。


「……野々村さんは二人いる」

「あ、そうなんだ。野々村と同じクラス?」

「…………野々村直花さん?」

「そうだよ」


 視線の変化の遅さに幅屋は苛立つ。加賀はこくりとうなずいた。


「ならよかった! 野々村のやつ、どうしてる? 友だちできてるか?」


 また加賀は視線を左へ、斜め左下――と会話に間を作り、じれったい。


「なあ、どうなんだよ。俺は不安なんだよ」

「…………たぶん」

「たぶん?」

「野々村さんが、ともだちになってくれる? って加藤(かとう)さんに言って、加藤さんが、いいよ、って言った」

「じゃあ、その加藤ってやつと仲いいんだな?」

「…………しらない」

「はあ?」

「わからない」


 チャイムが鳴った。幅屋は焦る。


「じゃあ、俺の代わりに仲のいい友だちがいるか先生でも何でも周りに聞いて放課後教えてくれ頼む。放課後またここに来るから。ほら、早く行け!」


 遅刻させてしまうので背中を押すが、加賀は歩くスピードを速めただけだった。「走れよ!」と声を張ると駆け足になってくれた。


(変な奴だな)


 それだけ思って、幅屋は菜の花小学校へ急いだ。


 登校中に具合が悪くなって、家に帰ろうかと思ったが、休むほどでもないと思って、もう遅刻してもいいやって気持ちでゆっくり来たと言い訳すれば。職員室の崇城は“呆れ”た眼差しで、額に手を当てて溜め息をついた。

 幅屋はあえて舞前の方を見なかった。見なくても十分“心配”されているとわかる。


「お前の熱意はわかった、が。自分のやっていることが余計なお世話である可能性も考えろ。明日からはちゃんと学校に来い」


 崇城先生の“理解”と“軽蔑”に、幅屋の心は震えた。


 あずまにはまったく同じ嘘をついた。案の定、心配されて。


「どうせ仮病でしょ」


 戸上の冷たい声が視線の壁の向こうからした。


「仮病だったら最初から学校に来ないよ」


 あずまが庇ってくれる。


「親に信じてもらえなくて、しかたなく来たんでしょ」


 テレビの砂嵐のようにざらついた視線のわずかな隙間から、戸上の冷めた目が見えた。あずまがまだ反論しようと口を開かせたが、幅屋は「いい。もういい」と止めた。


「ねえなんでそんな奴かばうの? 頭おかしいんじゃないの?」


 涙鬼の視線が発散した。


「あーもううるせーな! 仮病だよ悪いか!?」

「ほらやっぱそーじゃん!」


 あずまは目を丸くして、じわじわと“悲しみ”に見つめてくる。


「幅屋が仮病ってみんなわかってんだから、別に声に出す必要ないだろ。クラスの空気余計に悪くすんなって」


 同じ学級委員として見かねたのか、郡司まで冷静に声を上げる始末。最悪な休み時間になった。定丸もいつの間にか教壇の上に腰かけて微笑んでいた。


 崇城の言葉が突き刺さっているせいか、加賀と約束をしているのに、先に増岡宅に寄ってしまった。

 半小学校もとっくに下校時間。待ちぼうけを食らって帰っていたらどうしようと、後回しにしたのを後悔する。


 加賀は朝の場所にぽつんと立っていた。


「おい! ――うわっ、なっ」


 駆け寄った幅屋は仰天した。こちらを向いた加賀の顔。鼻から下がべっとりと赤かった。

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