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幅屋圭太郎は気持ちを理解できない

 戸上を中心に女子は冷ややかな視線を浴びせた。恐れから怒りへと昇華した彼女の確固たる意志と同調する女子に男子はいたたまれない。元はといえば幅屋が元凶なので、自分に矛先が向けられないように避けた。


 無視されれば無視し返せばいい。戸上がみんなに聞こえるように何かを発しているが、それも聞こえないふりをすればいい。幅屋は震える胸を押し堪えた。

 無視したければすればいいのに、どうしてこうも何本もの線に貫かれているのか。


 楽し気な会話。みんな笑顔だ。舞前がタラ福に操られていた頃と同じ空気が教室を支配しているのが高矢にはわかった。少なからず、幅屋と行動を共にすることが多かった自身にも影響が及ぼされていたのだろう。定丸が去ってより鮮明に、いかにこのクラスが異様であるか見えてきた。はっきり言って気色が悪い。


 この空気をずっと涙鬼はひとりで耐えてきたのだ。指折り数える必要もないわずかな日数で顔色を悪くしていたら精神が持たないのではないのか。無心に徹しようと奮闘している幅屋の葛藤が手に取るようにわかってしまった高矢は、つい人目につかないようにしながら自嘲してしまう。


 郡司は教室の本棚にある小説を読んでいる。夢水清志郎シリーズの『そして五人がいなくなる』だ。本人は曖昧に否定しているが、奴はクールなキャラだと呼ばれている。それにしても妙に静かというかおとなしいというか。殊久遠寺が別のクラスになってしまったせいなのか。

 わざわざ別のクラスから休み時間に会いに来られては囃されると思って奴が忠告しているのか、今のところは彼女はやって来ない。とはいえ、どうせ放課後になれば音楽室でふたりきりになるのだろうが。すかした野郎だと高矢は片頬をひくりと小さく動かす。


「圭太郎くん!」


 気がついたあずまが軽快にあいさつをする。とたんに空気が硬直する。幅屋は「シーッ! シーッ!」と人差し指を立ててあたふた。とても滑稽だ。


 戸上が動こうとしたところで崇城も教室に入ってきた。別の緊張感によって空気は誤魔化された。


「幅屋。もう具合はいいのか」

「あ、あ、はい」

「あまり無理するなよ。しんどくなったら保健室へ行け」

「あ、あ、はい」


 舞前の口添えがあったとはいえ、遅刻を叱られずに済み幅屋は胸をなでおろす。が、涙鬼の険しい視線に背筋を凍らせる。


(そ、そりゃそーだ……ずるいよな……)


 彼は先生に心配されことなんてなかったのだから。一度安堵した胸をかきむしりたい。胸に穴を開けて嫌なものも吐き気も全部引きずり出してやりたい気持ちに襲われながらも、小さい足取りで席に着いた。


 次の休み時間になって、幅屋は言われた通りに職員室に行こうと動く。


「まって、圭太郎くん」


 幅屋は慌てて駆けだす。


「まって! ねえ!」

「ウーン! もうっ!」


 幅屋は決意してあずまを男子トイレに引きずり込んだ。


「な、な、たのむから。生き物係の仕事するとき以外はしゃべりかけてくんな。な?」

「でも……」

「近づかれると戸上がうるさいんだよ。だからいつもはシカトしといてくれ」

「シカトは良くないよ」

「いい時もあんねんて! な? たのむから」

「うーん……」


 この後も念を押した。それでもあずまは納得しようとせず、ついには涙鬼が亡霊のように現れてしまった。


 交差する視線。といっても、幅屋は自分の視線がどんなものかわからなかった。一方的に相手から突き刺さっているようにしか感じなかった。


「というわけだからッ! お前は妖怪と仲良くしてりゃいーんだッ!」

「圭太郎くん!」


 幅屋はあずまを涙鬼に向かって背中を押し、男子トイレから飛び出した。


 どうにか放課後まで持ちこたえた幅屋は一組の担任から宿題を受け取る。既に舞前から話が通されていてやり取りも簡素だった。疑いと心配がねじれた視線は当然のことだろう。


 地図を頼りに増岡宅へ向かって、表札を目にすると脈拍が上がった。


(だいじょうぶ、だいじょうぶ。渡すだけ。渡すだけ)


 取り乱し、最初はポストに入れるということを頭からすっ飛んでしまった。深呼吸を何度も何度も繰り返し……呼び鈴を押すと、スレンダーな女性が顔を出す。()()()()()()、と震え上がる。


(たくみ)のお友だち?」

「ち、ちが、ちが……ます……これ……」


 うつむいて宿題の持つ手を卒業式よろしく伸ばした。プリントの間に反省文を挟んであるので、この人に読まれることはない……たぶん。


「わざわざありがとうね」

「そ、そそそ、そじゃあ」


 あたふたと塀の影へと逃げた。激しい運動の後のように顔を真っ赤にして、詰まっていた息を吐きだした。戸が閉まる音が聞こえると、金縛りが溶けるかのように脱力した。とても、優しい声だった。


 ふらふらと歩いて、ふと、門柱の郵便受けの投函口に目が留まる。辺りをキョロキョロ見渡し、開けて声を吹き込む。


「ゲロマシンってあだ名をつけてごめん……」


 謝罪が増岡に届くように。いつか本人に向かって言えるように。


 増岡工は緊張しいで、胃腸が弱く、ピークになると吐いてしまう奴だった。自分の意見を言えず、ことあるごとに顔を白くし、吐くとツンと酸っぱい臭いが漂う。女子は悲鳴を上げ、男子の笑いの餌食になった。だから誰よりも先にゲロマシンというあだ名をつけてやった。


 増岡の机は臭いって言ってごめん。


 すごく気持ち悪そうにしてたのに、吐くまで放置してごめん。


 吐きそうになってトイレに駆け込んだ時、洗ってやるって言って上から水かけてごめん。


 ゲロをなめろって命令してごめん。自分のでも嫌だってことくらい普通に考えればわかるのに。


 次の日、また次の日と、自分が与えた苦痛を一つも残さず絞り出そうと努め……まさか読む度に思い出して吐いてしまっているのでは? こんな手紙が来たと親にも言えないくらい苦しんでいるのではと、思い至る。


 余すところなく増岡の脳裏に悪夢がよみがえっている。自分が今やっていることは、やっぱり正解ではなかったのだ。結局は、自分が楽になりたいだけなのだ。ぜんぶ謝ってしまえば終わりで、ちゃんと謝った自分は偉くて、先生に偉いって思われたくて、そのあとの増岡を放置しようという魂胆ではないのか。だって、許すかどうかは増岡が決めるのだから。


 決意だって鈍くなる。それで一日だけ彼の家に訪れなかったことがあった。しかし翌日には高矢に「行かなかっただろ」と額をつねられ、また毎日通った。これでは高矢に怒られたくなくて謝りに行っているみたいではないか。自分は本当に反省しているのか……していないのか……。舞前先生はしていると言ってくれたけど、もしかしたら間違っているかもしれない……。


 ウサギ小屋の臭いにも慣れた頃、あずまはウサギをなでながら言う。


「えらいね、圭太郎くん」

「何が?」

「不登校の子に毎日宿題届けてあげてるんでしょ?」

「え、えらくねーよ!」


 誰が言った? 高矢か舞前先生か? いやあの二人は漏らさない。幅屋は思考をグルグルさせる。


「俺はい、いいい今、反省中なんだ」


 赤い顔をむっつりとさせ腕を組むと、あずまは微笑む。


「うん。えらいよ、俺も見習わないといけないね」

「なんで日比谷が俺を見習うんだよ、馬鹿か?」

「だって悪いことをした時、反省しないかもしれないよ、俺」


 サングラスをかけ、パンクなファッションを着て、髪をツンツンに尖らせたあずまが不良たちと戦闘を繰り広げる姿を幅屋は頭に浮かべたが、それはないと鼻息で妄想を吹き消す。


「んなもんありえっかよ。お前がいつ悪いことするんだっつうの」

「それはやってみないとわからないだろうよー。もし俺が圭太郎くんを殴ったらどうするんだよーだぜー」


 ただでさえ一人称が似合わないのに、あずまの変な口調に吹くしかなかった。あずまは続けて「笑うなよー、だぜよー」とふざけた。彼はけして悪いことをしなかった。ウサギをわざと近づけるような真似もしなかった。


 明くる日、あずまはキョトンとした。


「圭太郎くん、少しやせた?」

「え?」

「ちゃんと食べてる?」

「食ってるよ。もりもり食ってる」


 よく平気な顔でおかわりできるよね、などと戸上に嫌味を言われるくらいに食べる。


「それならいいんだけど」


 係の仕事が終わって解散すると、幅屋は一目散に教員用の男子トイレに向かった。


「ふんッ。ふんッ」


 胸を叩く。厳密には、胃を殴る。胃にフックをかます。


「オ、おえっ」


 洋式の便座にすがりつく。給食を上から排出させる。この瞬間は確かに不快だ。『調理員さんが心を込めて作った給食です』といつも放送されているのに。けれど口をゆすいで、スッキリして、ホッとして……鏡に映る自分が頭をかしげている。


 増岡の気持ちを理解するため自分なりに考えて始めて見たことだった。ひらめいた当初はいいアイデアだと思ったのだが、未だに増岡の心理に到達できず「なんか違うんだよなぁ……」と独り言ちる。

 やっぱり、いじめられた者たちの気持ちなんて理解できるわけがないのだ。


 鏡の中の自分の背後に定丸がいる。


「ここ男子便所やぞ」


 定丸が手を伸ばし、鏡の中の自分の目を隠す。


“視線がこわいんでしょ?”


“助けてあげられる”


 見えない手から逃れるように頭を振り後ずさる。


“わたしの手を取ってくれれば――”


「ああーああー聞こえないー」


 両耳をふさいだ。

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