余談~医師と上野家の歪みについて①~
ジョン・レノンが急逝。この大ニュースは泰京市でも震撼させ、クリスマスムードは消え失せた。
街中で流れていたクリスマスソングは彼の『イマジン』に変わり、ヒッピーが路上でアコースティックギターを鳴らし傷心に浸った。それでも僕はまったく実感が湧くことはなかった。驚きはしたものの、波が引くといつもの冷静な僕になった。
数日経ってもお通夜のような物悲しさが校内でも漂った。一体誰が殺したのかまで頭がまだ回らないのか、早々に旅立ってしまった男をただただ偲び、授業中はまるで黙祷を捧げているかのような重たくて息苦しい空気が充満していた。
特にファンでもなかった琥将も、世界的有名人が凶弾に倒れたとあっては周囲の心証を逆なでする下手な真似をしなかった。さすがの彼も状況をわきまえることを知っていた。
あの魅来さんすら、琥将の控えめな態度を理解して共に手を合わせて。ジョン・レノンの祖国の神々にけして届くことはない無意味なおこないなのに、琥将が満足するまで「なむあみだぶつ」と唱え続けようとした。
その宗派の神仏に縁がある者たちが地獄耳で不快感をあらわにさせる可能性を考えない軽率な行動だが、途中で琥将は気づいて事なきを得た。経を口にするのはやめて、ふたりはレコード店に入った。
となれば、いつもと何ら変わらない学校生活を送っていた僕は異端児だったのだろう。
他の人間に対する死に興味がない。そういうことなのだろう。縁もゆかりもない、画面の向こうの本当に実在しているかもわからない人間なら尚更に。人の死に意味を見出して、それこそ何の意味がある。
この非情で無関心な考えだが、加賀重豊医師も同じ思考の持ち主であった。いや、彼にはさらに冷徹と苛烈、偏屈も加えなければならない。
この男と対面したのはまさにこの頃で、病室の戸を開けると大きな黒い背中が座っていたのを印象に残っている。
「克義くん。こちらブラックジャック先生よ」
「やめろ。悪い冗談だ」
「そうかしら? すばらしい名医なのに」
「抜かせ」
男は照れ隠しをしているようには見えなかった。不快そうに溜め息をつき、立ち上がった。琥将よりも長躯で肩幅も広い。
黒のロングコートに黒の山高帽。厳つい鳥の頭の彫刻(おそらく純金)が持ち手の杖。その相貌はブラック・ジャックというよりもドクター・キリコに例えた方がまだ“確かに”と答えることができる。末恐ろしさがあった。
「俺は加賀重豊。医者ではない」
と、鳥の足のようにごつごつとした手を差し伸べてきて、握手をした。帽子の縁で見え隠れする白目が影の中で鈍く光っていた。
「ウソよ。おじ様はそういう仕事もしてるんだから。わたしのお母さんの診察もしてたのよ。まだ免許持ってるんでしょ?」
「そんなもんとっくの昔に神尾川の底に沈んでいる」
「ウソだぁ」
みさ子さんは無邪気に笑った。本当に無免許なら確かにブラック・ジャック先生だろう。
ふと、僕は寅子さんから聞かされた“ヘビ”のことが脳裏によぎる。「あなたはなぜここに?」と尋ねたくなるほどに。
「縁もゆかりもないオッサンが訪ねてきたらいかんのか小僧。そういう貴様はどうなんだ」
「たしかにそれは」
「さっきから何そこで突っ立っている。早くこの椅子に座れ。小娘に会いに来たんじゃないのか」
加賀さんはもう一脚の椅子をベッドのそばに用意して指を差した。
「見ろ。俺の真似もできんのか。チンパンジーのなり損ないめ」
加賀さんがゆっくりと腰を下ろしてみせた。みさ子さんはがんばって笑うのを我慢して鼻の穴を膨らました。傍若無人に僕は少々困惑しながら真似をするしかなかった。
「どうやら貴様はかろうじて人間だったようだな。目上の人間の話をどうにか理解することができる」
「ふひひ。おじ様ってとっても誤解されやすいの」
「だまれ小娘」
「ふ・ひ・ひ」
「どこに笑えるところがあった」
みさ子さんは肩で笑い続けた。笑い声を出し切るのを待った。加賀さんはどんどん恐ろしい形相になっていったが、爆発することはなかった。
「……あまりにも笑い過ぎると心臓に負担がかかるぞ」
「だいじょーぶよ! わたしが小さい時に“笑うのは健康にいいから今すぐ笑え”って言ったのはおじ様じゃない」
「ガキの記憶は当てにならん」
みさ子さんは「ほらね」と僕に悪戯な笑みを浮かべた。
彼女曰く、僕が毎日のようにお見舞いに来ているのを看護婦から聞いて遠慮をしていたらしい。彼曰く、浮気ではあるまいし、逢瀬を邪魔するような人でなしではないのだと。
「気を使ってくれてありがとう、おじ様。でもね、わたしはいつでも大歓迎なんだから。最近顔を出してくれないからちょっぴりさみしかったのよ」
「ふん。まあ、立て込んでいたことも一段落したから、これからは嫌になるほど来てやる。追い出そうとしても無駄だ」
「うふふ、受けて立つわ」
ほんの少しだけ、妬けた。
加賀さんは一度も照れた様子を見せることもなく、近況報告を適当に済ませると先に退出し、僕は小一時間ほど居座った。
とっくに日が暮れていた。病院前のバス停に加賀さんの姿があった。待ちぼうけを食らっていたはずなのに「ついてこい」と一言。有無を言わさなかった。
頬がひやりとして、僕は傘を差した。牡丹雪が街灯の中を落ちた。加賀さんは傘を持たず、無防備に黒いコートに斑点を作った。
「まったく。いつまで同じ曲を流すつもりだ。いい加減うんざりだ。肉体を復活させるための儀式か何かか!」
サラリーマンの帰宅ラッシュの最中、いつまでも流れる名曲に加賀さんは煙たそうに言い、いつまでも文句を垂れた。彼は音楽が平和をもたらすとは微塵も思っていなかった。凶弾がそれを証明しているのだと、ファンが聞けば泣き叫び怒り狂うような言葉を並べ立てた。
今は『イマジン』ばかり注目されていても、クリスマスの雰囲気が本格的になれば『ハッピークリスマス』に変化する。それが決定づけられていても、歌声を聞いたとたんムシャクシャしてたまらなくなるのだ。
加賀重豊医師はこの世界に対する絶望を抱いていた。ああやって周囲に迷惑をかけて鬱憤を晴らさなければ、まともな神経でいられなくなるのだろう。
反論したければかかって来いと言わんばかりに杖を悠々と振り、白い息と持論を吐く高飛車の奇人に通行人は奇異の目を向けた。僕は二、三歩斜め後ろを歩き、傘を傾けて他人を装った。
ついた先はとある雑居ビルの地下だ。『エイトチェンジーズ』というネオンサインが地上で強烈に光っていて嫌な予感はしていたのだ。
「未成年だとバレますが」
「顔を利かせてやる。ここは天国だからな」
加賀さんはうんざりした顔で言った。ここに琥将がこの場にいようものなら発狂ものだ。なぜよりによってここなのか聞くだけ無駄であった。
帰りが遅くなろうと明日は日曜日。警察さえも無礼講を楽しむという地獄にて、男同士の密会はジョン・レノンが死んでからとっくに五日が経っていた。




