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定丸をまぜてはいけない

 定丸が“ドラえもんの空き地”で待っていた。


『ほら、ここ。座って』


 言われるがまま、土管の上でふたりきり。小恥ずかしさに取った間隔も、座った瞬間に詰められ片手を握られた。冷たくも熱くもない彼女の小さな手に釘付けになる。


「ど、どうして勝手に転校しちまったんだよ」

『サルに追われてるの』

「サル?」

『姉さんとも離ればなれで。もうどうしたらいいのか』

「サルってなんだよ? サルがいんのか?」


 目を合わせたくなくて辺りを見渡した。繋がれた手はがっちりとくっついて、視線が頬に深く突き刺さっていく。うろんな目、しかし強い眼差しだとわかる。


『ねえ、わたしのこと好きでしょ?』


 ぎょっとして顔を上げてしまう。赤紫の眼光が渦を巻いていた。瞳孔が金色にひくつき今にもそこから何かがこじ開け出てきそうな気がして、取られた片手をはがそうと力む。


「ね、ね、一回、手を」

『また、まぜてくれるでしょ? そしていっしょに千堂を殺す』

「な、なあ」

『あの汚らわしい力のせいで感染しちゃったのよ』

「え? え?」

『わたし任せてくれればきれいにしてあげられる。このままじゃ全身が汚染されて死ぬ』

「え? え?」

『ねえまぜて。今度はずっといっしょにいよ。もう勝手にいなくなったりしないから』


 金色の瞳孔が歯を鳴らしている。幅屋は混乱して立ち上がり、足がもつれ土管から滑らせた。


 地面が消え、底なしの闇に宙ぶらりんとなる。幅屋は必死に定丸の腕にすがった。


『早く! 時間がない!』


 定丸の腕から黒く角張った腕が次々と突き破って幅屋の腕に絡んでいく。


「ひいいいいッ」

『まぜてやるって言えッ! このままじゃわたしは本当に』


 ぎょオン……と闇の深くから唸り声が響いた。定丸は『まずい』と怯え始めた。


『いいかお前はわたししかいない。わたししか頼れる奴はいない。他の奴らはみんな敵だ、いいな?』


 口早に言うと、彼女は幅屋を突き放した。赤い面の、巨大な獣の頭部が闇を豪快に食らいながら幅屋を大きく横切った。白髪の炎をなびかせ、無数の牙を何層にも軋ませる。


『ちくしょう!』


 悪態をついて逃げる定丸に向かって飛んでいく。


 幅屋は回転しながら落下した。獣の頭部が作った光の通り道を一直線。そして青空に飛び出した。


 鍵盤の滑り台の上を跳ねる。転がる。跳ねる。転がる。ピアノを弾く郡司を馬鹿にした自分の姿がちらついた。


 最後の白い鍵盤にどうにかしがみつこうとして、また宙に放り出される。


 もうだめだ死んでしまう! 涙も鼻水もぐちゃぐちゃにして、おしっこも漏らしそうになって、雲が集まって手の形に変わっていくのを見た。手の雲がどんどんできて、ふわりと包まれた。


 雲の中であずまによく似た天使に微笑まれた。


 目覚まし時計が鳴る直前に止めた。普段よりも激しい寝相だったことを物語る布団の形状と枕の位置。すさまじい尿意。転がるように布団から這い出てトイレに駆けおりた。恐ろしい夢を見たが、内容はおぼろげだ。


 朝食をモリモリ食べる。トイレから出てからよみがえってしまったなけなしの勇気も、母の「いってらっしゃい」が維持させてくれた。


 鼻息を吹かせずんずんと通学路を歩く。スクールバスが止まっているのが見えた。ギリギリ西区から通っている高矢が降りてくるに違いないと駆けた。

 バスを利用している子たちがそそくさと地下道に消えていく。列の最後尾に高矢がひとり悠々と歩いていた。


「おはよう」


 幅屋は練習だと思って声をかけた。


「ん? ああ」


 高矢は眉をひそめ振り返る。


「お前いつもここ通ってんだな」

「知らねーの?」

「今知った。なんか不気味だな」


 なぜか横断歩道がない代わりに地下道があって、中は薄暗くて妙に明るい音楽が流れている。てっきり高矢が怖くて我先にと他の子たちは走っていったのかと思ったが、そうでもないらしい。


「あ、見ろよあいつ」


 幅屋は前方でふらふらと歩いている男子を指さした。ポケットティッシュを一枚、ちびりちびりと食べる姿を友だちに見せてゲラゲラと笑い合っている。このふたりは後ろの高矢を恐れていないようだ。


「あれ二年の“ティッシュマン”。この前は消しゴム食ってうめーうめー言ってたぜ」

「うへー勇者じゃん」

「つかお前なんでいんだよ」

「勇気りんりんアンパンマン」

「ハァー?」

「アンパン食パンカレーパン」

「うっせんだよカバオがよ」


 高矢の切れ長の目がきらめく。


「お前まだ定丸気にしてんのか」

「え?」

「はやく忘れた方がいいぜ」

「何言ってんだよじゃーな」


 幅屋はティッシュマンの肩を小突いて追い抜き、地下道を脱出した。


 あずまを発見した。天然パーマだから後ろ姿でもわかる。チャンスだと思った幅屋は息をたくさん吸い込む。そして勢いよく!


「あ、お、おは、あ……」

「あっ、おはよう圭太郎くん!」

「あ、おはよう……」


 情けなくて濁っていて弱っちい声だったのに、あずまは気づいてくれた。揺るぎのない笑顔に癒され、幅屋のへにゃへにゃの勇気に花が咲く。


「い、いい、い天気だ、だだ、ね」


 そしてすぐに花がしおれる。なんて気持ち悪い声なのか。自分の口が憎たらしくてたまらなくなった。


「そうだね。今日も一日晴れだよ。体育は外だね」

「そ、そう」

「圭太郎くんって足速いね。一番は孝知(こうち)くんで、二番は吉祥くんで、三番目に圭太郎くんだね」


 そういえば高矢の名前はコーチだったなと幅屋は思い出す。幅屋は体重こそクラスで一番重いが、遅くはない。一時は少年草野球のチームに入っていたくらいだ。まあ、うまく馴染めず、ジャイアンの如く暴力を振るって辞めざるを得なかったが。事態を知った母に無理やり引っ張られて、相手の家まで連れられて、玄関先で母がペコペコと謝罪を繰り返す様子を見る羽目になった。


「で、も、千堂に、追い越されそう」


 嫌な思い出が脳裏にへばりつきながらもどうにか返事をする。涙鬼は五年生になって一気に五十メートルのタイムが早くなった。この調子だと郡司さえも追い抜くだろう。


「あははっ、俺はいつも最後だけどね」


 あずまは三回に一度は転倒し、その度に保健係が「またぁ?」と面倒くさそうに声を上げるのだ。あずまは自虐的に言った訳ではなく、楽しい話題の一つとして提供したようだ。幅屋も安心して笑みを浮かべることができた。


 しかし、それは長く持たなかった。昇降口の前に戸上聖子がいて、こちらを見つけるなり不快な目をした。

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