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幅屋圭太郎は日比谷あずまが理解できない

 生き物係の主な仕事は教室にある水槽のグッピーの世話。花壇の水やりや校舎横にある小屋のウサギの世話などは教室ごとのローテーションでおこなう。


 さっそくウサギの世話する日の放課後に、幅屋は小屋の前で深刻に頭を抱えた。糞尿と藁の臭いで鼻が爆発しそうだ。

 終わりの会が終わるや即座に去ることも可能だったが、崇城先生が「逃げるなよ幅屋」としれっとした顔で言ったせいで素直にあずまと行動を共にする素振りを見せるしかなかった。戸上の目も痛い。小屋の前までついてきてしまって、とうとう逃げ出せなくなってしまった。


 どうしたの、とあずまは純真な眼差しで振り返る。彼は既に恐れることなく足を踏み入れていた。


「……なんだよ」

「え?」


 幅屋は頭と声を震わせた。


「俺はっ。……こ、こ怖いんだよ……」

「俺が?」

「ちがうっ。い犬ととかねね猫とかっ。……そそそそとかっ」


 舌が回らない。かつて子犬に道をふさがれ、追いかけられたことがあって小動物はすくむほど苦手。それを知っているのは高矢だけだ。

 いかにも奴は「“あの幅屋”がウサギの世話!」という顔をしていて腹が立った。本気でケンカをしかけても、間違いなく高矢に負けることも含めて。


 あずまは不思議そうにしている。


「どうして決める時言わなかったの?」

「言いたくなかったんだよ! お前誰にも言うなよ!?」


 あの場で明かしていれば、ますます立場が危うくなっていただろう。幅屋ってばウサギが怖いんだって! そんな噂が学校中に出回ったらたまったものではない。


「言わないよ。なーんだ、俺が怖いんだと思って。じゃあ俺がウサギを移動させるから、その間に水とエサやってくれる?」


 あずまはためらいもなく「かわいい」と和やかにウサギを一匹持ち抱え、隅の方へやる。


 幅屋はそろりそろりと中に入った。あずまもある意味怖い。まさかトイレで水をかけて、ホースで縛って閉じ込めたことを忘れているなんてことはない。

 こいつだけなのだ、なかったようにして触れ合おうとするのは。それは、本当はとても勇気がいることなのではないのか。


「お、俺は悪いやつだろ……?」


 ウサギをちらちらと気にしながら幅屋は言った。


「どこが?」

「ど……どこがって」


 予想外の返答に戸惑ってしまう。


「お、お前は、ししし知らないかもだけど……お、おれ、お、俺は今まですすすんごい、わ、悪いことししししてきた、んだ」


 口の中がカラカラでうまく威張ることができなかった。恥ずかしさに顔が熱くなる。


「いっぱい泣かせてきたし反省もしてない! しないぞこれからも!」


 怒鳴ればきれいに声を並べることができた。


 あずまはもう一匹のウサギを抱えたまま、こちらを見ている。幅屋の頭の中がぐつぐつ煮える。


 黙らせなければ。誰にも言わないように。焦りで右手が拳を作る。ぷるぷると震える。でもウサギがいる。驚いてそいつを手放したらどうしよう。


 必死に巡らせていると、あずまはこんなことを言った。


「反省はしなくていいから、気にかけてあげなよ」

「え?」


 幅屋は呆気に取られて手の力が抜ける。


「悪くないって心の底から思ってる人に反省しろって言っても無理でしょ? でも気にかけてあげることぐらいできると思うんだよ。おはようって挨拶したり、笑いかけたり……」

「そんな気持ち悪いことできるかっ。俺は日比谷じゃねぇんだぞっ」

「困ったね」


 あずまは眉を八の字にして笑った。同じ年なのに、時々大人びて見える。子どもの眼差しから大人の眼差しに……。なぜそんな風に余裕でいられるのか幅屋はわからなかった。


 その時、ぞわりと背中が反応する。


「千堂」


 振り返えると奴は小屋に近づいていて、ひとにらみした。


「すごいや圭太郎くん! 千堂くんが来ることわかったんだ!」


 あずまは感心するが、幅屋は何とも言えなかった。彼にとってこの能力はただのビビりの延長線に過ぎないのだ。涙鬼は「まだ終わらないのか?」と真顔であずまに声をかけている。


「もう少し待って。見て、かわいいよ」


 あずまはウサギを涙鬼の方に持っていく。急に近づかれて幅屋は「ひやっ」と素っ頓狂な声を上げて角へと逃げる。その様子を涙鬼は一瞥する。


「笑うな!」

「笑ったように見えたか?」


 恥ずかしくて恥ずかしくて、体が燃えて死にそうだった。


「圭太郎くん、アレルギーなんだよ」

「じゃあなんで生き物係になった?」

「見るのは好きだから、俺がこうやって」

「そうか」


 納得する涙鬼。あずまは「ね?」と幅屋に微笑みかける。


 俺のために嘘ついた。ますます日比谷あずまという人間が理解できない。きっと脳みそはコンピュータのように複雑怪奇で、人間に理解できるはずがないのだ。


 偽善者? 自分は良い子だというアピール? そうやって負い目を作ろうという気なのか? こんな奴だから、千堂も落ちてしまったのだろうか。いじめられていじめられて、傷ついて弱っていたから、コンピュータで計算された優しさに触れて思わず、足を滑らせて手の内に落ちてしまったのか。


 見学されながら作業を終わらせ、あずまは息を吐く。


「圭太郎くんも一緒に帰ろう。途中まで」


 涙鬼が一瞬ムッとしたのを幅屋は見逃さなかった。


「俺は一人で帰る」

「でも」


 幅屋はそそくさと小屋から抜け出した。呼び声を背中に受けながら走った。


 行き着いたのは小さい頃から遊んでいた空き地。腹部まで伸びた雑草と、延々と刺さっている『売り地』と書かれた白い看板。それから大人も潜れるなぞの大きな土管が一本。子どもはみんな“ドラえもんの空き地”と呼んでいた。


 ランドセルを落とし、土管の上にぐったりと寝そべる。雲が泳いでいた。「白いウンコ」と呟いてやる。「うんこ」「ウンコ」と何度も空に悪口を言ってやる。


 ふと定丸(さだまる)のことを思い出した。初めて言葉を交わしたのはこの場所だった。


 夕焼け小焼けで日が暮れて――夕方五時に流れ出すメロディーをぼんやりと聞き流していた時、彼女はやってきた。まるで影の世界からやってきたお姫様のようだった。


“――幅屋圭太郎くんでしょう?”


 胸が揺さぶられる思いだった。考える間もなく彼女は隣に座り、目を覗き込んできた。瞳の仲にうろたえる間抜けな自分が映っていた。


“ねえ、わたしもまぜてよ。仲間に入れてよ”


 すごく嬉しかったのを覚えている。でもなぜ自分だったのか、聞くことはできなかった。一言もお別れの言葉をかけてくれないまま、彼女は遠くへ行ってしまった。誰も何とも思わないようだった。黙っていなくなってしまったのに、寂しいの一言も聞こえてこなくて、最初から存在していなかったかのような、自分だけ見えていた幻だったという錯覚にさえ囚われた。


 そこで改めて、彼女は嫌われていたのだと理解した。自分が嫌われているのは十分知っていたのに、それでも周りのことが見えていたかったのだ。

 悲しみなのか怒りなのか。彼女に対してなのか周囲に対してなのか自分に対してなのか。もうどうしようもないほどに確定できない感情が胸一杯に広がって、ひとり苦しんだ。そして苦しんでいるのを周りは嘲笑の目で見るのだ。


“しゃべってる時。話し相手がいると嬉しいんだ”


 あずまの言葉が脳裏によぎる。


「話し相手、かぁ」


 高矢と饗庭はどうだったのか記憶を巡らせる。高矢はどうでもいい世間話は好かないようだったし、饗庭は自分にビビっているのが丸分かりだった。定丸も所詮は。


“仲間に入れてよ”


“幅屋圭太郎くんでしょう?”


 本人ではない。ただの思い出が土管の周りをぐるぐるとさまよっている。いつかここで再会するのではと淡い希望を抱いて通ったのは春休みが終わるまでだ。春休みが終わっても会えなければもう会えないのだと自分に納得させたのだ。


“仲間に入れてよ”


 これは幻聴だ。


「ううんッ!」


 幅屋は強く唸り、息を止めて両耳をはたいた。定丸の声が遠のく。


 苦しく息を吐く。こめかみがジンジンする。


「俺、いない、のか……」


 雲は泳いでいる。青に押し流されながら。


 幅屋は郡司が時々演奏している曲を思い出した。何のために空は青いのだろうか。いつから友だちがいないのだろうか。いつから友だちを作れなくなったのだろうか。どうして作れないのだろうか。


 実行できないだけだ。


「話し相手……話し相手……ほしいな」


 千堂の存在は不安だが。日比谷ならきっと受け入れてくれるはずだ。


 明日、やってみよう。


 勇気を、出そう。

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