幅屋圭太郎は視線が気になって仕方がない
クラス発表の日からというもの、どうしたものか無視をするべきなのか、幅屋圭太郎はひどく悩んでいた。
そして始業式の日。何回の溜め息を学校に着くまでについただろう。足が重いのか体重が重いのか。
本当は休みたかったが、そうかといって不登校になりたいという訳でもない。問題はたったの二つなのだ。たった二つのことで学校に通うのをためらうなんて、幅屋は負けたくもなかった。“奴ら”とは違うのだと、彼は布団を思いきり蹴って起床したのだ。
その気合いの意味を母親は勘違いした。景気づけで叩かれた背中がまだじんじんしている気がする。食堂を経営しているから力が強い。気後れしてランドセルをさっさと背負わなかったのがいけなかったのだ。
そう、母は何にも知らない。何回か保護者面談や家庭訪問で態度の問題を先生に指摘されて、なぜどうしてとガミガミと咎められたが、四年生になってからは何にも言われなくなって改善されたと思い込んでいるのだ。
豪快な『いってらっしゃい』に無理やり背中を押されて、へそを曲げた彼は角を曲がってから振り返って誰もいないところをにらみつけてやった。
五年二組の教室札が視界に入っていよいよ胃も重くなる。負けん気を奮い立たせて詰め込んだ朝食が鉄球に化けたのかもしれない。
新しい席に着いて時が経ち、とうとう真後ろから警戒というものを知らない軽快な声をかけられた。
「久しぶり、圭太郎くん。おはよう」
喜色の顔の日比谷あずま。問題の一つ。女々しそうな顔をしているくせに、千堂涙鬼の友だちになってみせた規格外の奴である。
「お、おは……」
つい、挨拶を返しかけて幅屋は口をつぐむ。苦々しい視線を感じたからだ。よく漫画で視線だの殺気だの、見えないものを感じ取る描写があるが、まさか本当に第六感のようなものがあるなんて。めまいがしてくる。
彼がそれを体験したのは去年の二学期のこと。千堂涙鬼の兄が与えた言い知れぬ恐怖。あれこそが殺気だったのではないか。だとすれば今感じている千堂涙鬼の視線にはそれはない。
そうこれは……嫉妬だ。気さくに日比谷あずまと会話を楽しむ芸当は無理だ。奴がそれを許さない。
あずまも二人の心情を汲み取るべきだったが、彼が優先するのは平等の挨拶。五年生になる前からそうだ。高矢に対しても饗庭に対しても。特に馴れ馴れしく下手に出る饗庭に関してはすっかり涙鬼も諦めていた。
思えば俺に対してもそうだったなと、幅屋は饗庭のような太鼓持ちがうまく世の中を渡っていくのだろうと子どもながらに思った。そんな饗庭は三組でここにはいない。
「おはよう、千堂くん」
「おはよう」
涙鬼の語調はいつもの通り。淡々とした、意識して低くしている声。それだけでは苛立っているのかどうかは判断できないが、向けられている視線の強さで何となく把握できる。まだ体験していないが、全校生徒がいる中でもじっと見つめられたらどの方向に奴がいるのか当てられるかもしれない。幅屋はそれだけ涙鬼の視線に対して敏感になっていた。一体なぜか。
まさか千堂家そのものに関係しているなんて彼は思いも寄らない。何より、涙鬼が向けているのは兄の魃のように金縛りにさせるようなものではない、ただの視線なのだ。そう考えると、幅屋には一種の霊感を持ち合わせているのかもしれない。
「席、前後だね」
「うん……」
あずまはわざわざ顔を見せて話しかける。だから幅屋は顔を逸らす。
なぜ俺は“はばや”でこいつは“ひびや”なのか……五十音順という席順に不満があった。いつ新しい担任が来るのか、彼は待ちわびた。
二組の担任は崇城で、不満の声がぽつりぽつりと耳にした。しかし以前に饗庭が良い先生だと評価しているのを聞いて、案外と悪くないのかもとちょっとした希望を抱いた。
しかし早速……うかつだった。
(俺、ジャンケン弱かったんだっけ)
幅屋は頭を抱えた。
係決めの時のことだ。いつもなら言わなくても第一希望の掲示係を譲ってくれたのだが、それはいじめっ子だった時の話だ。威厳が薄れたせいか、人数がオーバーした係はジャンケンとなり、一番やりたくなかった生き物係になってしまった。よりによって、日比谷と一緒だ。
「がんばろうね」
あずまは明るい声をかける。彼もジャンケンの負け組だが、彼にとっては何係になろうが関係ないのだろう。幅屋はまた視線を感じた。涙鬼は黒板係だ。
「先生」
「なんだ?」
崇城が挙手した幅屋を見る。
「千堂と俺で係かわりたいんだけど」
「ダメ! もう決まったんだからね」
崇城が口を開く前に、学級委員となった戸上聖子がしかめ面で言い放つ。彼女は初仕事で黒板に張られているネームプレートを係ごとに赤いチョークで囲っていた。
「俺にとっても千堂にとっても」
「ダメったらダメ! オッケーしちゃったらジャンケンの意味ないじゃん」
彼女は邪険に扱い、生き物係も丸で囲った。「ま、そういうことだな」と崇城も戸上に同調した。高矢は鼻で笑う。涙鬼は何か言いたげだったが、残念そうに口を閉ざした。
戸上ってあんな奴だったっけ? と幅屋が思うのも無理はない。彼女も彼を恐れていた一人だったのだから。高学年になったのを区切りに、戸上は変わったのだろう。強気になっただけでなく、胸も膨らんできている。それに気づいた幅屋はそこから目を逸らす。
さて戸上を泣かせたのはいつだったか。二年生の時? どうやって? なぜ? 遠い記憶になっていた。が、彼女にとっては昨日のことのように根に持っているに違いない。
本当に千堂にとってもいいことなのに。千堂だって交換したかったはずなのに。しかし言い返すことはできなかった。
“そいつらは仮にお前らが誠心誠意に一人ずつ土下座して謝ったところで許したりはしない。いつまでも心に傷を抱えて、中には末代まで復讐してやりたいと思っている奴もいるんじゃねえか。その時になって周りが助けてくれないことにひたすら後悔するんだな”
千堂の兄の言葉は今でも耳に一字一句違わず残っている。あれは呪いの言葉だ。許すとか許さないとか、考えたこともなかったのに。あの言葉のせいで、あの目のせいで何もできなくなっている。暴力を削がれた自分に残っているのは、遠慮だ。
同じく学級委員である郡司と目が合うと、交代の要望をした意図を察しているのだろう、彼は肩をすくめてみせた。




