余談~妖精が見えるみさ子について②~
「さっきのはなぁに?」
冒頭で使用済みのコンドームが唐突に登場して、僕は過去類を見ない気まずい思いで「さぁね?」と返答した。こんな時は冷徹なところが役に立つ。
真っ白な壁一面に映し出された『ブルース・ブラザーズ』はみさ子さんを夢中にしてくれた。兄弟の名前がデッデーンといきなり紹介されるシーンにウケて、ご希望に添えて僕は二度そこを巻き戻した。みさ子さんはヒイヒイ笑った。
親族でもなければ緊急を要する訳でもない宿泊を僕は甘んじていた。常日頃から素行が良かった僕なので、勉強会だと言えば簡単に家は許可した。
アメリカではレイトショーが当たり前なのだと、みさ子さんは自慢げに言った。彼女にとっては特別な理由で、僕は消灯時間の過ぎた病室にとどまっていた。
ベッドのサイズがダブルなので、一緒に温かくして寝ながら鑑賞するのはどうかといたずらに彼女は提案した。却下した。僕はその日のうちに買った安物の寝袋を珍獣の抜け殻のように床に敷いて、いつもの椅子に腰かけていた。
信号無視からのパトカーとカーチェイス。痛快な曲に乗せて兄弟の車が夜を駆け抜けていく。白い光がみさ子さんの瞳に貼りついていた。
鎮座しているプロジェクターは映画館に憧れた彼女のわがままで、僕は静かに仰天した。その男には相当な権限があるらしく、院長伝いに送られた物であった。『白い巨塔』でしか見たことのない白衣の行進を僕は見送って、VIP待遇のみさ子さんは彼らがいなくなると小さな舌を出していた。
肝心の男はデカブツを送りっぱなしで顔を見せには来ず、伝言もメッセージカードもリボンもなかった。機材を設置したのも担当医たち。みさ子さんは気にも留めずあっけらかんとそう言った。いっそのこと毒素を暴力的に吐き出してくれた方が、僕も現実的に受け止めやすかったのだろうか。懸命に、真摯に向き合うことができたのだろうか。
その男、上野大國。彼女の言葉を聞く限り、父親としての印象はイマイチ。あまり褒められたものではないと決定づけたのは、寅子さんがおせっかいにも上野家の周辺を調べ上げた結果であった。
「カノジョのお母さん。旧姓が泰天だった」
先日、僕は病院に行く道すがら寅子さんの舎弟に呼び出された。以前のファミレス、以前のテーブルで寅子さんはくわえタバコで待っていて、僕が席に着くと戸籍謄本のコピーをバッグから取り出したのだった。
みさ子さんの母、上野聖子は既に逝去している。
「例の占い……このままじゃ危ないって話。正体はコレなのかも」
わたしのお母さん、わたしを産んで死んじゃったの。血を出し過ぎたのよ。
僕の絵を描きながら、真剣に僕の姿をとらえながら……みさ子さんはそうやって真実をさらっと唇からこぼした瞬間。その空気を何度も思い出させた。
僕に構ってほしいのだと思考したこともあったが、単なる世間話でしかなかった。箱入り娘としてずっと病室で生活しているために、自分に関する貴重な話題の一つとして身の上を明かした、それだけに過ぎなかった。
映画をぼんやりと見つめながら、隣のみさ子さんの気配を感じながら。「シカゴっていいわね。アメリカに住んでみたいわ」と憧れの溜め息を耳にしながら。寅子さんとのひと時が脳裏にまざまざ映し出されていた。ヤニの臭いすら鼻腔によみがえるかというほどに。
「千堂家にもたらされたのが天罰なら、泰天家にもたらされたのは慈悲ってやつよ」
慈悲?
「詳しいことはわからない。とにかく泰天家の娘に慈悲が与えられた。きっと身も心も美しかったんでしょーね」
何か特別な力が?
「授けられたとされている。でもそれが発揮された実績っていうか文献はない。むしろ大きな負担になって娘は早死にした。娘には女の子がいて、どれも老ける前に、美貌のピークが過ぎる前に死んだ。泰天家の血を引く女はみんな慈悲が遺伝していたのよ。美人薄命ってやつよ」
僕は首をひねって舌打ちをこらえた。四文字熟語ひとつで納得できる話ではないのだ。
「みんな、天使が迎えに来たって言って、笑顔で死んでいったらしい」
寅子さんは神妙な面持ちで「冗談じゃないわ」と低い声を落としながら、整った細長い指の関節のしわを深くさせてタバコを灰皿へとひねり潰した。
「まさか天国でハーレムでも作ろうっての?」
新しいタバコをくわえながらの神への毒づきに、別のテーブルで待機していた舎弟がハッと息をのんだ。彼女は心配の眼差しを無視して、鼻を鳴らしながら煙をくゆらせた。
千堂家の呪いのように、その慈悲は解けない?
「いろいろ試したみたいだけど。うちんとこのヘビ……“ヘビの尾”も協力してて。でも結局、然る陰陽師のお抱え薬師もお手上げ。奴らは何の役にも立たなかった。薬の実験台にして、娘をひとり死なせただけだった」
詳しいんですね?
「隠蔽しようとしてたのを“トラの足”が発見したんだよ。目を光らせてたおかげでね。てっきり陰陽師の娘とだぶったもんだから、それで力入れて救おうとしてたんだって……でも違った。文字通り実験台のために泰天家の娘に手を出したって吐き出すことに成功して。どうせ命が短いんだから医学の向上のため、世のため人のために消費した方が得だって、娘も同意したって……ヤバい奴らだよ、ヘビは」
寅子さんは妖艶に赤い唇を引きつらせると、軽蔑の目を窓の外の空気に向けた。
それから横目で僕に微笑みかけた。
「カノジョがいる病院にはいないっぽいからそこは安心していいわよ。サルは紛れてるけど、気にすることないし」
……もし慈悲を快調に扱えていれば、どんな力だったんでしょうか?
「さあ、神のご慈悲だから」
一体何の意味があると言うのか。若く美しいうちに死ぬことが慈悲だというのか。衰え朽ちることが哀れだというのか。
「泰天家は聖子が上野家に嫁いだことで潰れた。他は悲劇を終わらせるために養子を迎えたり出家したりして血を途絶えさせたみたい。まあ中には隠し子がいるかもしれないけど。正式な家系をたどった限りでは、カノジョが慈悲を持ったただひとりの娘。末裔になるってわけ」
兄がいるらしいですよ。
「ろくでなしの兄ね。どうもうちの弟の元カノと付き合ってるらしいのよ」
僕はカフェオレでむせた。
「ほんっと世間って狭いわー。あのコ前までうちと同じ店で働いてたんだよ、年齢サバ読んで。ケバイ化粧して。よくあることだけどね。ヒヒのジジイが見破ったってのが癪に障るわ」
寅子さんは酷い苦笑いを浮かべた。
「受験で自然消滅したって辰郎のやつ思い込んでるっぽいし、その頃は別で片思いしてる相手いたっぽいし。フン、見てればわかるよ。だからまったく未練ないみたいだけど。アレは間違いなく二股。中学ン時から大学生と付き合ってたのよ。援助交際ってやつ。こっわ」
寅子さんは大袈裟に、ぶるりと寒そうに自分を抱きしめてから、辰郎にはナイショにしといてと無表情で言った。言われなくても言うはずがなかった。彼女のことなので、秘密裏に別れさせようと画策しているに違いなかった。




