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余談~妖精が見えるみさ子について①~

 病室にSHARPのラジカセ、“キャロル”があった。キャッチコピーは『夢見る少女はとってもピンク。ピンク・キャロルがお似合いですよ。』だと、みさ子さんは茶目っ気たっぷりに教えてくれた。この時は松田聖子の『青い珊瑚礁』が流れていた。


 僕はあれ以来、学校帰りに彼女の病室まで通うようになった。図書館でなくても、勉強ができるならどこでも構わないと言い聞かせながら。


 琥将がいやらしい目で笑ったり、囃したりということはしてこなかった。例の占いのことに思い至ったからだ。だからといって僕の新たな習慣を止めに入らなかった。彼は約束を覚えていた。そしてこうも言った。


「あの子に会うのをやめるのはやめろ。占いは外してやるから」

「恩着せがましい奴だな」

「なんとでも言えや。俺は頑丈だからな。ひとりやふたり敵が増えても変わんねえかんな。ほんじゃーな」


 みさ子さんが入院患者の中でも特別待遇であることは、初めて入室してすぐに悟った。病院がホテルにたとえるならスイートルームを彷彿とさせる個室だった。

 そんなだだっ広い病室に、みさ子さんはひとりだった。戸を開けた僕を見て、いつも「いらっしゃい」と破顔して迎えてくれた。


「ねえ、克義くん。お互いに秘密を教え合いっこしましょ?」


 みさ子さんは流行りの聖子ちゃんカットの髪をふんわりと傾けた。


「ひみつ?」

「わたしはね、ニンジンが苦手なの!」


 にんじん……。


「克義くんの秘密は? なんでもいいの!」

「僕は……天然パーマだ」

「本当っ? あははっ! 仲間だぁ! ポマードで隠してるんだ? わぁ素敵!」


 僕は眼鏡の縁を押さえて彼女の視線から逃れた。


 みさ子さんは二歳年上だった。それを知った僕は慌てて敬語を使おうとしたが、彼女はそれを拒んだ。今更距離を取られたくなかったからだ。それでも時に、互いに口に出てしまうのはご愛敬である。

 彼女はいつも無邪気に思いついたことを提案した。一方的で僕を困らせたが、特別に嫌と思ったことはなかった。彼女のころころとした声は心地よかった。


「お絵描きしましょうよ」


 みさこ と書かれたスケッチブックの表紙を僕に見せた。

 彼女が楽しめる娯楽といえば、テレビや音楽、お絵描き、編み物……ひとりで楽しむにも、用意してもらわないといけないものばかりで、毛糸の玉がゴロゴロ入った籠や、いくつもの画材が傍らに置かれていた。ぬいぐるみも多い。


「僕は今まで……成績で美術を2以上取ったことないんだ」

「関係ないわよぉ。お題はねぇ――丸ちゃん!」

「まるちゃん?」

「知らない? 忍者の名前よ? 丸ちゃん、マイチョ、ダイチョ、ユウタン!」


 チンプンカンプンだったので、彼女の即興の絵描き歌のとおりに描いて渡した。案の定、笑われた。


「あははっ。面影ないけどコッチの方が可愛くて好き!」


 スケッチブックを見ながら、みさ子さんは頬を赤くさせた。


「そうかな……?」

「名前と日付書いてちょうだい!」


 言われるがまま書いた。


「みさ子さんの描いた絵、参考に見ても?」

「いいわよ」


 遠慮なく、そっとページをめくり、窓辺に座る何かの絵と、花瓶の縁に座る何かの絵と、ぬいぐるみと添い寝をする何かの絵を見た。

「妖精さんよ」と、質問する前に彼女は答えた。その時はまだ想像力が豊かな人なのだと単純に思っていた。


「あ! 今度はわたしがお絵描きするから動かないでね。克義くん描いてあげる」


 有無を言わせず。僕は何度もみさ子さんと目が合った。スケッチブックから視線を上げて、深くて丸い青色の虹彩が、じっと、僕の姿をとらえた。


「わたし人間を描くのは初めてかも」

「家族とか……」

「苦手。みんな気難しくて、息がつまっちゃう」


 つらさや悲しみの色のない声音。そして瞳。揺らぎなく、純粋に僕だけを見つめているように錯覚した。


 担当の医師や看護婦が入ってくるのは稀で、この病室はふたりきりの空間であった。ラジカセからの歌も曖昧になって、世界にふたりしかいない。そんな感覚。それが昇華されていくのを感じる。不思議な時間だった。


 ある時は色鉛筆。ある時はクレヨン。ある時は水彩絵の具。


 そしてある日、彼女が何枚目かの僕のデッサンをしている時、僕が勉強をしている姿を描いている時。僕はふと目を上げて、彼女の袖口から銀色に淡く発光している少女が見えた。


 少女はスケッチブックに鋭い腕を伸ばし、針を刺すようにデッサンに触れた。黒鉛の僕の目に波紋が浮かび上がり、僕の目が青く染まった。

 僕は呆然とそれを目撃して、銀色の少女はハッと僕の視線に気がついて袖の中に引っ込んだ。


「みさ子さん」

「なあに?」

「袖の中に妖精が……」


 みさ子さんは目を丸くして、鉛筆を置いた。自身の袖の中を覗いて、「いないわ」と僕に見せた。


「きっと勉強のし過ぎで幻覚を見たんだ。今のは聞かなかったことにしてください」

「ふつうなら幻覚は見ないのよ」


 みさ子さんは丸い目をキラキラと光らせて言った。


「克義さんも、向こうの世界が見えるのね」

「向こう……?」

「ほら、見える?」


 彼女は窓の外を指さした。病院の中庭だ。


「何が見えるんだ?」


 僕は目を凝らした。


「今は銀色の森が見えるわ。湖があって、あれはガラスかしら……もしかしたらダイヤモンドかも。キラキラ光る建物が建ってる。そこから来たのね」


 彼女は爽やかに振り向いて、首をかしげた。僕は視線を落として、スケッチブックの中の僕の、青い目が視界に入った。


「夢じゃなかったのは、確かなんだろう……」

「今は見えないのね」

「ああ。みさ子さんはいつも見えているんですか?」


 僕の問いに、みさ子さんはおどけながらこう答えた。


「見ようと思ったら見えてきたり、急に見えたり、重なって見えたり、その時の体調で変わるの。わたしが向こうに行ってるわけじゃないのよ? なんていうか、映画館みたいな感じ。行ったことはないんだけど。でもたまに、今どこにいるのかわかんなくなっちゃうことがあるの。最近はそんなことないけれど。でもそれで、どうしようってなって声をかけてみるんだけど、スクリーンの向こうの俳優さんに声をかけても意味ないでしょ? それとおんなじなの。でも声をかけてみるのが迷った時に一番手っ取り早いの」


 みさ子さんは「それでね!」と嬉しそうに声を上げて手を叩いた。


「妖精さんとは顔見知りなの。わたしのこと気がついてくれて。言葉は通じないけど、時々向こうから遊びに来てくれるの。触れることはできないんだけれど」


 流れる『青い珊瑚礁』の聴覚的効果もあって彼女は元気に見えていた。肌の色も健康的に思えた。だから外見には症状が出てこない病気なのだろうと思っていた。

 僕は具体的な病名は聞かなかった。聞いたところで僕は医者ではない。病人のみさ子さんではなく、みさ子さんとしておしゃべりを楽しみたかったのだ。勉強しながら勉強とは関係のない話をし続けるというのは僕にとって珍しい。奇跡といってもいいだろう。


 もしかしたらそのうち彼女の方から明かしてくれるかもしれないと思っていた。しかし僕は医者ではないので、知ったところで治療はできない。


 妖精が見えるのだと、別の世界が見えるのだと。

 病名ではなかったが、それは僕の胸中に染みとなって、じわじわと広がっていった。ベッドの上であっても元気そうに振舞ってくれるから、僕の胸中で警鐘が鳴った。狐たちの忠告が脳裏で反芻した。仮に医者になってみせたところでどうにもならないという嫌な確信、宿命めいたものを……。


「だいじょうぶ? 浮かない顔して」


 明くる日に、みさ子さんはそう言って僕の手を取った。妖精が見えたなんて、彼女に言わなければよかったと後悔した。


「心配しないで。ね?」


 僕はもう一つの手で眼鏡に触れようとして、彼女に止められた。両手をやわらかく包み込まれた。自分の手が震えていたことに気がついた。

 みさ子さんの手は冷たかった。手が冷たい人は心優しい人なのだという迷信をこの時ばかりはすがりつきそうになった。


「妖精さんが見えることは別に悪いことじゃないのよ」

「悪いとは言ってない」


 大人に優しく諭された気分になった。未だかつてない恥ずかしさに、彼女の目をまともに見られなかった。

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