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牛方彦⑥~日比谷あずまは妖精に祈るしかない~

もしかしてうだうださせるのが自分の性癖なんじゃないかって気がします。

「兄さん」


 涙鬼の呼び声は小さくて無力。うずくまったまま、左拳を床に叩きつける兄。あれほどまでに悔しそうな顔は初めて見た気がする。

 真夜中の台所で亡霊と見間違うほどの不気味さと活力のなさで立ち続ける兄はもちろんのこと、あずまに素直になれない自分を無理やり引っ張った弟思いの兄とはまるで人が違って見えた。


「早く立て」と命令する行司小鬼に耳を貸さず、感情をむき出しに何度も拳を痛めつける兄。もう左腕しか頼れないのに自らの意志で左手を傷つけようとしている。再戦のチャンスは与えられたがそれが兄の自尊心を足蹴にした。


 あずまは唾を飲み込んで息を吐く。


「魃さん、一瞬で負けちゃった」


 あずまの言葉尻が震える。童小路は彼を見上げ、腕にしがみつく力を強めた。


 スポーツマンシップは最初から存在しない。最初から牛方彦の独壇場。掌握された舞台。勝ち続けた魃は笑われ、台無しにされ、困憊(こんぱい)している彼に勝っただけの牛方彦がたぎる観衆から歓声を受けている。大絶賛だ。


 明子は眉間に谷間を作り、口をへの字にしている。鼻から息をいっぱい吸い込み叫ぶ。


「ひぃーでぇーりぃーちぃいーーいッッ!!!!」


 またしても彼女の声が空気を突き抜けた。魃にだけではなく、今度は全員に届いた。無理やり立たせようと手を伸ばした行司小鬼もぴたりと止まった。


 しん……として、明子が世界の中心になった。琥珀色の瞳がぎらついている。魁次郎の時と同じく、誰もが彼女から飛び出されるのを期待した。


 しかし明子は何も言わなかった。今にも怒鳴りそうに目を三角に吊り上げているのに沈黙して力強く仁王立ちしていた。


 静止してしまった空気の中、一番に動いたのは魃であった。呼吸を浅く刻み、サイコロをつかみ、上体を起こし、片膝を立たせ、ふらつきをこらえ、立ち上がった。窮地に立ったというべきか。敏速にできなかったのが彼にとって悔やまれた。


 卑屈になっている場合ではなかった。正気ではなかったのだ。情けない姿をさらしてしまったと魃は思った。一番悔しいのは当然自分なのに、それ以上に明子が悔しがっていると感じている自分がいる。


 彼女は心底悔しがっている様子でありながら涙はない。泣くほどでもないのか、泣いている暇もないほどなのか、だとすれば後者なのだろうと魃の直感が働く。悔しくても泣くべきなのは当事者で、傍観者の彼女は泣かないのだ。黙っているのはもう余計なことは言うまいという我慢かもしれない。


 サイコロを台の上に転がした。何が出るかは考えなかった。


「三だな。ではあと二回相手しよう」


 牛方彦は「今回は運を味方にできたようだな」と明子に向かって言った。彼女は未だに憤慨の顔つきでいる。許してたまるものか言わんばかりに、神を相手に無礼な態度を恐れず保持する。


「もしやあの娘は“トラの足”の者か?」と傍観者たちは明子の正体に気づき始める。怖気づいて後ずさり、あるいは一目見ようと前進する。千堂家に婿入りした、裏切った男の血筋がいかほどのものか目で確かめようとする。


 試合と関係のない観客側の波立ちに太鼓が鳴る。


「は・は・は。琥将の名を捨てても威光は健在のようだな。お前と千堂辰郎が同じ血が流れていようと、まったくの別人なのだ」


 明子はむくれた。よくわからないが馬鹿にされたと彼女は思ったのだろう。しかし、どちらかといえば庇ってくれたのではないかと魃は悟る。


 悲しきかな。ただでさえ痛々しいさまを晒しているというのに。弟にもその友だちにも、明子にも、これ以上な格好悪いところは見せられない。


「さあ! さあ! 手抜き無用の腕勝負だ! 牛方彦が勝てば今年の浅緋牛安は大吉日である!」


 赤角は太い腕を広げて仰々しい声を張り上げた。観衆は明子のことなどあっさり忘れた。


「二戦目! はっけよーい! ……残った!」


 今度は同時に反応した。組まれた手が滑って離れた。軽くなって危うく肘が離れそうだったところを魃は堪える。

「無効、無効! やりなお~し!」と行司小鬼が止めた。魃は手のひらの汗を拭い取る。


「はっけよい、残った残った!」


 踏ん張った。「もった、もった!」と明子は高ぶるが、またしても大袈裟に落胆する。今度は転がることはなかったが、魃は立膝で左拳を震わせている。


「牛方彦さんは雪もよさんよりも力があるんだね」

「ちがう。兄さんは疲れてるだけだから。こんなの卑怯だ」


 神への批判は歓声のおかげであずまにしか聞こえることはなかった。


「どうしよう、千堂くん。あと一回だよ」


 あずまはそわそわしながら祈る手をやめない。


「おねがい。妖精さん。魃さんを助けてあげて」

「何言ってるんだ」

「だって神さまにお祈りしてもダメなら妖精さんしかいないよ。おねがい妖精さん」


 不毛な行為に涙鬼は顔をしかめる。


「そんなの意味ない」

「そんなことないよ。お母さんだって、妖精さんにお祈りしたから俺が生まれたんだよ」


 頭がおかしいんじゃないかと言ってやろうとしたところ、牛方彦の言葉に阻まれた。


「さあ、後がないぞ。負ければお前たち兄弟は二度とここへは来られない。つまりどういうことかわかるであろう」


 緊張を煽られる。


「そう。ぜんざいが食べられなくなるのだ」


 またしても笑いが起こった。それがひどく魃の心をかきむしった。


 言われなくとも理解している。これからひとりで明子はこの神社に……いや、もうあの子はここへ来ようとは思わないだろう。明子にとって重要なことはカボチャぜんざいを食べることではないのだから。


「さあ。買いかぶってしまったなどと、このおれに言わせるなよ」


 どこまで事情を理解して、牛方彦が焚きつけるような発言をしたのかは不明であった。

 魃は右腕の三角巾を取る。


「魃ちぃ! 何やってんだ!」

「ないよりマシ」


 魃は右手でピースをして明子に見せた。


「最後の勝負!」


 行司小鬼の言葉に、興奮は最高潮に達する。


「千堂家! お前が勝てば大吟醸を一瓶くれてやろう!」

「では俺は米一俵だ!」


 神たちは万が一の時の報酬をこぞって口に出し始め、「なんとまぁ、あたいの時はなかったじゃないか」と魁は片眉を上げる。あずまは妖精に祈り続けた。


「はっけよーい――――」


 牛方彦は魃の手のひらの温度の高まりを感じ取る。行司小鬼は場が静まるのを待った。

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