牛方彦⑤~ルールがあっても扱いは良くならない~
祖父と従妹の応援をもらっても、魃の顔には覇気がないままであった。それでも、憔悴しきっているでもなく、土気色になっているでもない。相当マシといえる。終わりが遠のいたことに対し気が沈むことも苛立つこともなく、手荒に応急手当されたことに腹を立てているだけにとどまっているだけのようにも、涙鬼には見えた。が、実の胸の内は読めない。
あずまが思うのは、痛そう。ただそれだけ。小鬼たちの応急手当で治癒が一気に進んだのであれば、つまりはまた想像を絶する苦痛が与えられる前兆である。
「さてさて。実は三戦分しか相手を用意してはいなかったのだ。したがって、この場で決めよう。お前としても八寒地獄の洗礼のような扱いをあれ以上味わいたくはないだろう」
憐れんでいるかのように見せかけながら牛方彦は魃に言った。
「さあ。千堂家の腕をぐちゃぐちゃにひねりつぶしてやりたいという者は挙手をするのだ」
「四人目に立候補したい者は!」
行司小鬼が言い終わらないうちに我こそ我こそと喧騒からさらなる大声が上がり、たくましい腕が何本も上がる。心が広い牛方彦の粋な提案は涙鬼たちがぎょっとするほど好評である。
「おお、さすがは千堂家。斯様に人気がありすぎると悩んでしまうな。赤角、お前が決めるのだ。選び放題だぞ」
「ふん」
半ば呆れた面持ちの赤角は扇風機のようにゆっくりと首を左右に振った。
当然、屈強な相手を選ぶだろう様子を魃は一瞥しつつ、奴らが“千堂家”と口にすれば蔑称にもなるのだなと、ただ苗字を呼ばれているだけなのに頭にきた。今更ではあったが、それに気がついてしまったくらいに牛方彦の神ゆえの不敵な態度が鼻についた。豪奢にも見える衣をまとっているせいか、余計に。
ゲームセンターのパンチングマシンを思い出した。小銭を少し払うだけで鬱憤を晴らせるのは良いシステムだと思う。最高のスコアを叩き出せれば、余計に。怒らせたらマズいと見下す奴が何人か減らす効果もあった。
誰が相手になろうが魃としてもお構いなしの気持ちになった。俺を甘く見るな。二度と馬鹿にするなという気持ちを込め挑戦者を倒していく。それでも挑戦への挙手の数は増えるばかり。
凍傷を引き起こしてくるような相手はいなかった。逆に火傷だとか感電だとか、そういう小賢しい真似をしてくる相手もいなかった。純粋なる筋力。真っ向勝負の腕相撲。雪もよの時の苦戦が嘘のように次から次へとねじ伏せた。
ランナーズ・ハイならぬ、アームレスラーズ・ハイというやつなのか。脳みそが右手に移植されたかのように右手だけに意志があり、踏ん張る足と支える左手が直結しているだけのような感覚にさえ陥った。
納得がいかない表情の敗者が現れる。しかしルールはきちんと従っていると確信している魃は堂々として、往生際の悪い敗者への野次がきつくなるだけであった。そこは公平なのだと涙鬼は妙に納得がいかなかった。
「反則しちゃうと牛方彦さんが決めたことを守らなかったってみんな怒ると思うんだけど、たぶん守ってる以上は最低限の敬意を払わないといけないんじゃないかな?」
あずまが言うと、魁次郎が満足気にうなずいた。
「守っているのに罵声なんて浴びせようものならルールを理解していないって思われて、遠回しに牛方彦殿の面目を潰そうとしていると判断されてもおかしくないんだよ」
「じゃあルールを決めたから、まだマシってこと……?」
祖父に説明されても、涙鬼は尚更に矛盾を感じてしまった。
六人目を終えた頃には傷口が開き、握る手と手の間からスダチを絞ったみたいに血が滴り落ち白菊を汚した。魃の横顔はより蒼白に、げっそりと病的になっている。
今度は暑さに耐えかねて、上着をぎこちなく脱ぎ落とした。両腕の筋肉がぱんぱんになってトレーナーの裾がきつく感じる。
ピアノでも弾きたいのか、指が小刻みに、不規則に揺れ動いている。次の相手が登壇して、指がピンと張りつめてまた揺れ動いた。既に一人目の相手が誰だったのか記憶はおぼろげ。卑怯な奴だったという印象しか残っていなかった。
七人目を破った。魃は右手首を押さえた。
「ありゃ折れたね」
魁の気軽な呟きに、涙鬼は愕然とした。あずまは祈る手に力がこもり、明子は顔を真っ赤にして鼻息を荒くする。
「こんなのマシじゃないよッ」
涙鬼の嘆く声をかぶせるように、行司小鬼が腹を一杯に膨らませ、叫んだ。
「さぁ八人目! 八人目だッ! 東ィ! 牛方彦様ーァ!」
尻尾を巻いて逃げる機会は失われた。牛方彦はついに櫓を飛び降り、優雅に袖を返らせながら魃の前へと着地した。太鼓は地響きが起こるかというほどに轟き、笛の音は天まで鮮烈に突き抜けた。
「よくぞ」
「神さまを相手にするには骨が折れる」
「粋なことを言ったつもりだろうが、大して面白くはなかった。もう一度手当をしてやれ」
魃はまた子鬼たちに寄ってたかって手当てをされたが、右手は三角巾で首から吊られてしまった。
「ふ、左腕だけでやるしかなさそうだな」
最初からこうなることを見越していたとしか思えなかったが、文句を言えばひんしゅくを買うのはこちらの方だ。
「あいにく、俺は両利きなもんで」
空威張りに聞こえただろうか。叔母の方に目を向ければ、彼女は唇の片端を吊り上げ、「男を見せろ」という目をしている。
牛方彦は束の間にたすき掛けを終わらせる。ふたりは左腕を準備する。行司小鬼は交互にふたりを見た。ふたりは見つめ合った。
「はっけよぉーい……――残った!」
どん! と音がしたかと思えば、魃は倒れていた。彼自身、何が起こったのかわからず混乱した。
目の前にサイコロが転がった。牛方彦は淡々と言う。
「緊張はほぐれたろう。もう一度、采を振るがいい。一が出ればこれをもって終了とする」
負けたのだと魃は知る。『のこった』の『の』で、牛方彦は自分よりも先に反応したのだ。「様を見ろ!」と野次が飛ぶ。
「は・は・は。そう怒るな。そろって失念しているようだが、こいつは真面目にやっているのだからな。こういう時は笑ってやればいい」
牛方彦が観衆をたしなめると、どっと笑い声が上がった。魃は怒りに歯を食いしばった。




