牛方彦④~魃は運を信じない~
雪もよが観衆の波へと去っていくのを見届けると、魃は力が抜けて膝を突いた。そして息をむさぼった。腹を目一杯膨らませてひゅうひゅうと喘ぎむせかえった。
観衆が雪もよに意識が向いている最中に、彼の赤黒く青黒く膨張した右手は痙攣をおこしていた。皮膚は裂傷し、水膨れがめくれ上がり、黒紅色の血がどろりと表面に膜を作って揺れている。それを嗚咽の漏らしそうな険しい顔で見下ろしていた。
「魃さん、だいじょうぶ!? 魃さーん!」
あずまの呼びかけは騒音にかき消され、魃にまで届かなかった。背中を震わせてうずくまっている兄に、涙鬼はたまらず一歩踏み出す。
「あっ! るーちゃんどこ行くんだね!?」
舞台に乗り上げようとしているのを明子は上着を引っつかみ止めた。涙鬼は振り向きざまに明子を突き飛ばした。
「おいおい、レディに何やってんだい!」
魁が額に手を当てながら呆れた声を上げる。魁次郎は小走りに駆け、尻餅をついた明子に手を差し伸べた。
あずまも慌ててついていこうとしたが、童小路にしがみつかれて足止めされてしまった。その間にも涙鬼は滑り込むように魃のもとへ寄り添った。
「もう帰ろう」
涙鬼が目の前に現れ、魃は目を見開かせた。いつもつんけんとして素直でない弟の暗い眼差しが憂いで揺れ動いている。兄に対し感情をあらわにしてくれた事実だけでも、この舞台に立った甲斐があったのだろうか。
「涙鬼……でも」
「別にここに来れなくなるくらい別にいい」
「棄権したら俺は、馬鹿にされる……」
「だってもう三回も勝ってて……強そうな奴に勝てたんだし」
涙鬼が舞台上にいることに気づいた者たちが「乱入したぞ!」と指を差し、新たに騒ぎ立て始めた。
「そいつを引きずりおろせ!」
「行司! 何してる!」
怒鳴られる小鬼たちだったが煙たそうな顔をしながらも素知らぬふりをしている。
「ならおれが引きずりおろしてやる!」
カンカンに起こった観客のひとりが舞台に乗り上げようとして、すかさず東西のセコンド小鬼が集まって両手を突き出し制す。
「おやめください! 牛方彦様と赤角様の尊前でございます!」
「ガキはいいのか!?」
ひとりに触発され、牛のかぶり物の踊り手を押しのけわらわらと舞台の下に群がり、もはや収拾がつかなくなるかという時、上からひとりの拍手が気持ちよく鳴り響き、あっという間に静まり返った。
「見事な勝ちっぷりであった」
牛方彦は手を叩くのをやめる。松明の炎で瞳は喜々として輝いていた。
「弟の方は棄権を勧めているが、お前はそのつもりがないようで安心した」
涙鬼が口元をへの字にして首を横に振るので、牛方彦は可笑しそうに目を細め、頬杖を突く。
「は・は・は。弟はお前が尻尾を巻いて逃げてくれるのを期待しているぞ」
魃が「俺に尻尾なんかねえ」とぼやくのを耳にして、牛方彦は「そうだな」とますます可笑しそうにうなずく。
「逃げ帰ることはこのおれが許さん! おい! さっさとそのへなちょこをつまみ出せ!」
赤角に命じられた行司小鬼がさっと涙鬼の肩を掴む。
「はなせッ」
「黙れ! 牛方彦様をがっかりさせるなど言語道断!」
引きずられ、高々と放り投げられ、魁次郎に抱き留められた。
「ええい! いつまでそこにへばりついている見苦しい! おれたちの顔に泥を塗る気なのかッ!?」
赤角に一喝されて、涙鬼に文句を言っていた者たちはぞろぞろと後退した。
「さあ。興ざめとなる前に、もう三勝してもらおう」
「なにぃ!? 三回勝ったんだから次はお主の出番だぜ!」
明子は腕をぶんぶんと振り回して牛方彦に異議を唱えた。
「まずは三勝と言ったまでよ」
「そんなに魃ちぃに負けるのが怖いんかっ」
「牛方彦様を侮辱する気か!」
憤慨する行司小鬼に「よい」と一言、牛方彦は喉の奥で笑う。
「“トラの足”の娘よ。面白いことは飽きるまで繰り返し見ていたいものだ。そうだろう」
「そいつはワガママっていうんだぜ」
「我が儘か。は・は・は。おれは我が儘らしい。ふ・ふ・ふ」
声を出して笑われて、明子は怪訝な顔で「別にギャグとか言ってない」と唇を尖らせる。
「く・く・く。そうか、胡坐をかいていられるのも今のうちという訳だな。ではこうしよう。采の目で残る試合の数を決める。一が出れば直ちにおれはそこに降りよう」
それで確定だと言わんばかりに袖から茶色のサイコロを出し、行司小鬼に放った。
魃はゆっくりと立ち上がり、二の腕で額の脂汗をこすり落とす。台に寄りかかるようにしてサイコロを受け取る。
牛方彦は人が悪いというか神が悪いというか。明子も余計なことを言ってくれたとは思う。けれども彼女はいつまでも高みの見物をしている神に非難をしただけなのだ。責めてはかわいそうだろう。
弟のおかげで少しは時間稼ぎになったが、雪もよの凄まじい冷気による痛手の治癒は遅れていた。もう少しの間だけ、涙鬼と明子には騒いでいてほしかったとは思う。
「ちゃんとイチを出せッ!」
無茶なことを言ってのける明子に、魃は口角を震わせる。うまく苦笑いを作ることができずに頬の氷の膜がひび割れ、そこから何かが少しとろりと出たような気がした。おそらく水ぶくれが破れたのだろう。
感触はないまま、サイコロを手の中で振る。
(……これは二分の一だよな)
魃は思う。これは三回以上やるか否かの賭け。運だの、確率だの、ぼんやりとしたものは嫌いである。宝くじを買って一円も当たったことはないし、福引をやってもポケットティッシュしかもらったことがない。
一方で、母はよくテレビで競馬を見てサンレンタンだかを気味が悪いほどに当て、既に老後の心配をしなくてもいいくらいの額を儲けているらしい。千堂家へのご利益を放棄しているあらゆる神仏の中に貧乏神もいるというのはお笑い種である。
賭け事や金運の神には頼らない、母には母の力があるわけで、彼女を真似てはならないし当てにしてもいけないと祖母からは固く念を押されている。
またしても、うだうだと考えてしまっている。あなたって子は辰郎の良くないところまで似てしまったもんですねと祖母から白い目で見られた時を思い出す。
残りどれだけこの右手は持ちこたえてくれるだろうか。微妙に指を曲げた右手を傾け台の上に落とした。
行司小鬼は出た目を確認し、サイコロを掲げた。
「五! 五です!」
明子たちは落胆する。
「運がないな。あと四勝だ」
「……ちがう。これはただの偶然だ。落とした力の加減でそうなっただけだ」
心底くだらなそうに言ってやると、牛方彦は「そうだな」と簡素に受け答えた。
「手当てをせよ」
牛方彦の命令でセコンド子鬼たちはこぞって小箱を持ち、包帯や軟膏、鋏をそれぞれ持って魃の周りに群がった。彼を舞台の角へと引っ張れば、軟膏を小さな手のひらですくって右手に叩きつけた。
「痛ってぇッ!」
「暴れるなっ」
二匹の子鬼が腕を押さえる。
「凍傷の手当てってこんなんじゃないだろ!」
「鬼神さまの手を持っていながら何を言うか情けない!」
手際良く包帯を巻き上げ結び、鋏で切れば完成だ。
「一体どうなるんだろう?」
「わからん」
あずまと涙鬼は手当てされた右手をさすりながら台の前へ歩む彼を見つめた。
「魃や!」
魁次郎がついに声をかけ、周囲は何を発言するか注目した。
「集中して。力を信じるんだ」
「そうだぜ魃ちぃ! パワー!」
しかし、明子も共に至極当たり前なことしか言わなかったので、わざわざ言う必要があったのかと小馬鹿にした目を彼らに向けた。




