牛方彦③~千堂魃は先祖を誇りに思わない~
「東、冬牡丹雪もよ~!」
鈍い金属音を軋ませながら、どすん、どすんと力強い歩みを見せた白い髭面の大男に、会場の熱気がさらに上昇する。
「こいつは強そうだぜ」と明子は開いた口がふさがらないまま額の汗を指で払う。一月の真夜中とは思えないむさ苦しさを彼女たちに感じさせた。
「腕比べがあると聞きつけて来てみれば。本当に腕比べだとはな……」
冷徹な声で、雪もよは千堂家の少年を見下ろす。真っ白な溜め息がきらめきを放ち、一瞬にしてレースのクロスがかけられたかのように雪の結晶が台の上に広がり消えた。
「少しとばかり台が小さいのではないか?」
「申し訳ございませぬ。こやつの背丈に合わせているものでして」
行司小鬼は媚びた笑みを浮かべてへりくだるも、魃にはお前のせいだとばかりに横目でにらむ。魃もまさかそんなところに気を使われているとは思いも寄らず、だからといって不利な状況は変わらないため口角を歪ませた。
腹から氷柱を垂れ下げている青白い馬に乗って会場にやってきていた雪もよは皮の手袋をはめていた。魃は行司小鬼に向かって指摘をしてやろうと口を開きかけ、やめる。
「なんだ? 言いたいことがあるのなら言え」
「……いや」
行司小鬼は「意気地なしめ」と鼻腔を膨らませて煽り、魃の心はひやりとする。こいつは何を言おうとしたのか、腹の内を読まれたのだ。フェアプレイを語ったところで、ならば相手も素手になればいいと牛方彦が提案するに違いない。手袋の許可をもらえてとしても、もはや意味がないことくらい先ほどの試合で身に染みた。
冬だからそれに司る者を対戦相手に選んだ訳ではないと、魃は既に理解できていた。こんなもの、まるでリンチではないか。
見た目通り、冬将軍と呼ばれるにふさわしいなりをしている雪もよの冷たさは想像の域を超えているはず。もはや痛みしか感じられないだろう。
しかし、こいつさえ倒せば牛方彦が下に降りてきてくれる。早くこんなくだらないお祭りを終わらせたい。
魃は肩で大きく白い息を吐き、気持ちを整えようとする。
「一瞬で決めろ!」「腕をぺしゃんこにしてやれ!」と声援を受け、雪もよはずしりと硬い肘を台に置く。
表面を覆っているきらびやかな光のオーラがゆらりと舞い踊る。ダイヤモンドダストというやつなのだろう。天気予報か何かで魃は知識があった。当たり前のように多くの熱気を遮断し続けている冬将軍の冷気に、彼は身震いする。
「魃神。哀れなことだな」
雪もよは魃の手をじろりと見て独り言ちた。
「はっけよーい」
雪もよのごつい手にがっつりと握られ、魃は心も潰されかけた。皮膚のしわというしわまで霜が入り込み密着していく感覚が恐怖を揺さぶる。
「残ったぁ!」
行司小鬼は軍配で宙を切った。雪もよは「ふん!」と力を込め、ぎちりと甲冑を軋ませた。肩がもげるかというくらいに、魃は上体を持っていかれた。寸前のところで右手の甲は堪えた。首筋が切れんばかりに歯を食いしばった。
「持ちこたえたぞ!」「やるな人間!」「違う千堂家だからだ!」と様々な声が飛び交う。
腕の血管が太くなる。血流が熱い。額の血管が盛り上がる。大粒の汗がしたたり落ちる。台にしがみついている左手もぎりぎりと震えている。いつのまにか一線に切れた手のひらから血が出て、またしても凍りついた台の辺からにじんでいく。
いつの間にか垂れ下がっていた鼻水がくの字を作って伸び、重みで折れた。
「持ち上がったぞ!」
少しずつ体勢を戻していく魃にどよめきが起こる。
「やるな、千堂一族の血脈よ。これならどうだ!」
雪もよは発奮し、体から蒸気を発した。「見えない」と童小路が不満を漏らした時、魃の悲鳴が上がった。
涙鬼とあずまはおどおどと目を凝らすが、「残った残った!」とちょこまかと動き回る行司の影しか見えない。
雪もよの気合いは魃を地獄に突き落とした。左手の怪我の血は凍りつき、手の甲には氷の膜が真っ白にできた。
右手は……見るに堪えなかった。握っているのか握られているのか、痛みを通り越し、細胞が死んでいくのがひしひしと伝わってくる。
このままでは握りつぶされる。指がちぎれ、台にぽとぽとと落ちる様が脳裏に浮かぶ。
それを魃神は抵抗していた。必死に細胞を復活させようとしていた。魃はこんな痛みなどさっさと失くしてしまいたいのに、呪いは失われた痛覚を戻そうとしていた。
なぜこんな目にあわなければならないのか、理不尽で涙が出る。涙が凍りついて視界もままならない。苦悶の声をさらすたびに、幻聴なのか牛方彦の愉快そうな笑い声が耳につく。怒りがこみ上げてくる。畜生、ふざけるなと罵倒してやりたくなる。
「千堂魃。お前も名誉のためにここに来た訳ではないという」
唐突に、雪もよは蒸気の向こうから話を始めた。
「またしても千堂一族の面目のためでなく、ぜんざいを食うため。いや、前は団子を食うためだったか。面妖なことだ」
魃は顔を左右非対称に歪ませてにらむ。勝てる状況にもかかわらず、話を聞きたいためにわざと動きを止めている腕が憎らしかった。
「お前たちは先祖をどう思っている? 誇りに思っているのか、恨んでいるのか」
魃は、自身が節操のない奴だと感じ取っていた。八方美人になるつもりは毛頭ないが、牛方彦と赤角が家に訪れてから意志が揺れ動いていた。
千堂家の尊厳がかかっている。敗北すればさらに下に見られるだろう。涙鬼が味わった地獄の半年間は二度とあってはならない。家族のために痛みに耐えなければならない。
しかし、もし勝利すれば? 本当に三連覇をしてしまっていいのか? 魃は神仏の目も気にし続けた。生意気だと思われないのか。機嫌を損なわないのか。腹いせに次は涙鬼が狙われるのではないか。
八百長が脳裏によぎる。
「負ーけーるーなぁーーーーッ!」
雪もよの顔が現れた。明子の強烈な応援が舞台上の蒸気を払ったかのように見えた。
「……なぜここで笑う?」
雪もよは片眉を吊り上げる。魃は笑ってしまっていた。
思えば、叔母は性格にはこう言っていたのである。これはアンタらの尊厳てもんがかかってんのさ。
「……名誉って、甘いのかね?」
「甘い?」
「俺が誇りに思っていることは家族のことだけで、先祖を誇りに思ったことなんて、ないかんな……」
「然らば、恨んでいるのか」
「俺が恨んでいることはこの両手のことだけで、先祖なんかマジでどうだっていい。憎むなら今! それで! 俺はみんなとぜんざい食べるんだッ!」
魃の目の色が変わった。両手の斑が一回り大きくなると、甲の筋がぐんと盛り上がった。氷がひび割れた。
「むぅ!」
これは【鬼縛り】だ。術を使ってはいけないルールはない。特に驚くようなことでもなく、雪もよも油断はしていなかった。ところが。
「まあアアアアけえええなアアああいいいいいいいいイイッ!!」
激声を飛ばしながら、魃は雪もよの腕をねじ伏せた。
「せ、千堂魃の勝利、勝利~!」
行司小鬼が慌てふためく。一瞬の間を置いて会場が湧き上がった。
「勝った! 勝ったぜ!」
「やったやった! すごいや!」
明子とあずまは飛び上がり、ぐるぐる回った。涙鬼はホッとして胸をなでおろす。
「見事だ」
雪もよは健闘した少年に笑みを浮かべて舞台から降りる。周囲は健闘を称え、魃をこき下ろし始めたが雪もよはそれを制した。謙虚な奴だと言われもしたが、彼は黙って愛馬のところまで歩を進めた。
「なんてやつだ」
雪もよは苦々しい顔で手袋を外した。手が枯れ木のように細くなっていた。
「魃神め。おれの手を朽ちらせる気か」
田畑が干からび、作物が育たないのは旱魃の鬼が生命を吸い取っているからだ。そんな言い伝えがあったのは遥か昔のことである。




