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牛方彦②~千堂魃は素手でがんばらなければならない~

「頑張れーっ! 魃ちぃーっ!」


 明子は拳をぶんぶん振り回し、飛び跳ねて声援を送る。彼女の声は魃の耳によく届いた。


 設けられている台は艶やかな黒い側面に金色の梅の花と牛が描かれ、上面は朱色の萩の花と白菊とで分かれていた。


 牛方彦が提示したルールは極めて簡単。

 一つ、競う腕の方の肘が台から離れると反則。

 一つ、足が完全に地から離れると反則。

 一つ、反則が三つたまると負け。

 一つ、手の甲が台についたら即刻負け。


 雪まくりは手を蓑から出し、右肘を萩の花の柄の上につけた。紅色に霜焼けしている指先を曲げ伸ばししながら、上目遣いで純朴に微笑む。


「手袋、外しておくれ」

「……わかった」


 魃が右の手袋を取った途端、行司小鬼はそれを奪い、セコンドのように待機している舞台の角の小鬼に放り投げた。


 おお、と嘆息が会場で沸き上がる。青ざめるという言葉があるが、彼の両手の甲は人間のものとは思えない薄い緑青の色の肌をしていた。水色の血管の中が小川のようにさらさらと流れているのが見える。イボとは違うのだろうごつごつとした石のような斑が突起していて、透明で小さな水かきが照り返していた。


魃神(ひでりがみ)様の手じゃ。何とお(いたわ)しい、千堂家の汚れた手になられてしもうた」

「牛方彦様と赤角様がお許しになりさえすれば、このおれが切り離してやるのに」


 嘆く声がする。あずまはあれが魃さんの呪いなのだと、気まずそうに右手を晒している彼を見守り、涙鬼は兄を不憫な目で見つめた。


 右手の血管が寒さに驚いて縮こまるのを感じる。

 魃神という名の鬼神は、水の神とは相反する存在だという。地域によっては河童の成れの果てだともされ、干害を引き起こす災厄とされ千堂家に討たれたのだという。物心ついた頃から、誰から聞いたわけでもなく知っていた。


 だから水に属するものは苦手らしい。当然、雪も……。

 魃は深呼吸を三度繰り返し、神経を集中させる。


「はっけよーい」


 魃は白菊の柄の上に肘を置き、雪まくりと手を握り合った。その瞬間、右腕の筋肉がびくりと痙攣した。


「兄さん……?」


 兄の一瞬見せた強張った横顔に、涙鬼は不安を覚えた。


 行事小鬼は握り合う手にそっと手を添え、双方の顔を見上げる。そして会場が静まるのを待った。


「……残った!」


 行司小鬼が手を離した瞬間、魃は足を踏み込み雪まくりに勝利した。


「千堂魃の勝利~!」


 すかさず行司小鬼は軍配を上げ、喚声が沸く。笛太鼓が鳴る。

 大袈裟に囃される中、魃はゆっくりと外した手のひらを呆然と見下ろす。雪まくりの異常なまでに冷えた手のおかげで赤くなっている。


(しかもあいつ)


 すたこらと舞台から降りていった雪まくり。彼は間違いなく、横ではなく上に向かってひねって引っ張ろうとしたのである。反則負けに持ち込もうとしたのだろうか。


 血行を良くするために軽く揉むうちに赤みも消え、痺れるように鈍った感覚も取り戻す。魃は西のセコンド小鬼が握りしめている手袋に目をやった。


「それ」

「手袋は違反である! 続いて二人目、東! 雪庇(ゆきびさし)~!」


 行司小鬼は魃の声を厳しく遮り、軍配を東へとかざした。

 はんぺん、あるいは布団のような、白く分厚い体をした者が頭を垂らしながら出てくる。雪庇は腰を曲げつつ柔らかそうな白い腕を伸ばして台に肘をつき、丸く短い指をへにゃへにゃと動かした。


 魃はそろりと櫓を見上げる。赤角は我慢強く腕を組みギラギラと睥睨(へいげい)している。牛方彦は黒塗りの器を片手にし、ふわりと立つ湯気に息を吹きかけているところであった。


(クソ!)


 こちらに目も向けない男にむかむかする。


「がんばれぇーッ!」


 明子の叫び声に、呆然としている弟と、あずまが曇る眼鏡を指で拭き、慌てた様子で手を組み祈るのを見た。


 一体何に向かって祈っているというのか。魃は涙鬼の友だちのしていることに嘲笑しそうになる。


「はっけよーい!」


 魃は覚悟しつつ肘を台に置く。手が雪屁の手に包み込まれた途端、シュウッと蒸気が吹いたような音がした。思わず「ぎっ」と顔を歪めた。


「残った! 残った残った!」


 まるで千本もの小さな針が突き刺さっているかのよう。どんなに手首を巻き込んで横方向へ倒そうとしても雪庇の腕は動かない。柔らかい手首がぐんにゃりと曲がるだけで全ての力がそこに吸収される。そして自分の手には無数の刺し込まれる痛みが蓄積されていくばかりであった。


「魃さん辛そうだよ」


 はたして彼の額から吹き出す汗は熱気のせいなのか。あずまはハラハラして祈る手に力がこもる。


「長引くのはよくないね。ほらほらもっと気合い入れな!」


 魁は踏ん張る甥っ子に激励を飛ばす。雪庇の手はむくむくと膨らみ始め、魃の手首も包み込んでいく。


 小さな汗が頬に伝う。手の感覚が相手に吸い込まれていく。これ以上時間はかけていられない。魃は綱引きをイメージして上半身を斜め後方へと落とし、喉から威勢の声を絞り出しながら雪庇の手首を引き倒した。


「千堂魃の勝利~!」


 行司小鬼の声をかき消すように喚声が上がってお祭り騒ぎ。明子は「二連勝だぜ!」と興奮してジャンプをし、魁次郎にハイタッチをする。

 涙鬼は彼女のように単純には喜べない。兄は前のめりに右腕を押さえ歯を食いしばり、顔は赤く呼吸は荒い。


 手をはがした時に袖からバリバリと氷の膜が砕け落ち、袖の縫い目が破けていた。涙鬼はゾッとする。


 両手の甲に呪いがある兄は、両手に近いほど怪我の治りが早い。だからといって痛覚は人並みである。夜こっそり手荒れを作ろうとする兄とはいえ、皮膚が傷つくその瞬間は人と同じように痛むはずである。


 見慣れた兄の手。雪まくり、雪庇と直接彼らに触れた手のひらは既に完治しているように見えた。兄は肩で息をしている。無理やり完治させたのだろう。


 魃は右手の状態に苛立っていた。鬼神の手の甲……血管がうねって膨らんでいる。水かきにも青い毛細血管が薄らと見え始めた。人間の手のひら……表向きでは治っているが、また痛みは残っている。そのうち呪いが吸い取ってくれるだろうが、次の試合まで時間が足りない。


 傷口に塩を塗ることになるだろうその予感にもかかわらず、魃は不思議な、不可解な気分にさせられた。

 奴らは千堂家に因縁をつけ、魃神を哀れに思っているが、その魃神はここにいるのだ。力だけ千堂家はものにしているのだと言う奴もいるらしいが、間違いなく、魃神はここにいるのを感じる。


 教えたところで、信じてくれたとしてどうなるのだろう。魃神さまを千堂家の肉体という名の狭い牢獄に閉じ込められているのだと糾弾するに違いない。

 少し、笑えてきた。


「よいね」


 牛方彦は甘酒を飲み干し、千堂魃の奮闘に含み笑いを浮かべる。


「さあ、三人目だ!」と赤角が告げると、厳つい顔をした大柄の鎧武者が現れた。

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