ぜんざいくらいどうってことない
屋敷の敷地内に入ると二度三度と何かを叩く音がした。裏庭で誰かが涙鬼たちに背を向けて薪を割っている。あずまは以前に寝泊まりした際、風呂を沸かすのに魁次郎が薪を燃やしていたのを思い出す。
冬にもかかわらず薄着を腕まくりして、露出した上腕にはきれいな弧を描いた筋肉。デニム生地のぴっちりとした短パンから生える脚は競輪選手を思わせるような太さで、背も高い。
後頭部には二つ結びならぬ四つ結びで、上下に二本ずつの灰色の髪の束が突き出していた。それが妙にあずまにはただならぬ人物なのだと感じた。
シルエットだけでは男にも見えたが、足音に気づいて振り返るそこには胸があった。「おばさん! 帰ってたんだ?」と魃が驚きの声をかけた。
「ああ。ちょいと仲間と馬鹿騒ぎやって二日酔いなんだけどね」
酒焼けしたのか声が枯れている。それが彼女の雰囲気には合っていた。「誰だね?」と明子は涙鬼に問いかけ、涙鬼は「魁おばさん」と仏頂面で答えた。
魁は斧を薪割り台に刺し立て、腰に手を当てる。
「まあ姉さんの様子見たかったし、タツローに一発食らわしてやりたかったし」
毎年この時期に帰ってくる訳ではないらしく、二日酔いでも帰らなければと行動を起こさせる理由が彼女にはあったということだろうか。辰郎を殴りたいだなんて、あずまは心配になった。
ふと目が合って、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「おやぁ? 何やら見覚えのある顔だねぇ」
「日比谷あずまです」
あずまが頭を下げると「わ! 仲人とみさ子ちゃんの子かい!」と嬉しそうに軽快な笑い声を上げて大きく近寄った。
「ははん、いかにもいい子ちゃんだね」
顎をなでながら背を少し下げてあずまをじろじろと見下ろした。
灰色の髪と瞳が日の光で銀色に見える。汗ばんだ上腕は照り、観察でふと表情が抜ける瞬間もあって、人工的な何かにあずまは見定められているような感じがして硬直した。
突然、あずまは頭を両手でがしがしとかきなでられて目を白黒した。魁はいたずら小僧のような小生意気な笑みを浮かべる。
「あのメガネ。子どもまで巻き込まれてさぞかし迷惑してるだろうよ。どうせタツローが仲良くするよう言ったんだろ?」
「はい。僕たち同じクラスなんです」
「ここまで運命的だと気持ち悪いねぇ」
「僕は千堂くんと出会えてよかったです。お父さんも迷惑だなんて思ってないです」
「うわぁ。完、全、にみさ子ちゃん似だわ」
魁はにやにやと涙鬼を見る。涙鬼はうつむき気味でへの字になっている口元しか見えなかった。
薪を割り終えた魁は汗をかいたと言って風呂を焚きに向かい、涙鬼はあずまのリクエストで昔から屋敷にあったという羽子板を用意した。
「本当だ、このシャトル、バドミントンみたい」
「二対二でやろうぜ。魃ちぃはアッキー様チームね」
明子は手頃な小石で地面に線を引き、魃を自分の陣地にぐいぐい引き入れる。羽子板のデザインを眺めながら、あずまは言う。
「俺、初めてだから最初は手加減してほしいな」
涙鬼と魃が「俺?」と同時に反応した。
「ああ、明子ちゃんが教えたのか」
「変なこと教えるな」
「別に変じゃねーぜ。るーちゃんも俺って言ってんだから仲間だろ」
振袖を着ているとは思えないくらい、明子は軽くステップを踏みながら「ちゃーちゃあちゃらっちゃー」と野球で流れる曲を口ずさみながら羽子板を素振りする。涙鬼は文句を言う気が失せた。
ゲームは始まり、あずまが確実に羽子板に慣れてきた頃。
着物姿の二人組の男が屋敷に訪れ、チヨが客間へと誘導した。
「ここでお待ちください」
二人は黙って客用の座布団に腰を下ろす。チヨは一旦退室し、しばらくして魁次郎が入ってきた。
「どうぞ、楽な姿に」
魁次郎が向かい合って言うと、二人組からボンと煙が噴き出した。煙の中から現れたのは先とは異なる姿をした二人組。
一人は赤い狩衣装束の、雛壇の右大臣を連想させる細く凛々しい目をしている。彼は人間の姿をしている。もう一人は、実際はもう一体と表現するべきかもしれないが、立派な赤い角を生やした黒く大きな牛の頭を持ち、立ち上がったならば角が天井に刺さりそうである。
二人が正体を現した瞬間、魃は大きい何かが家に来ていると肌身で感じ取った。
「悪い、ちょっと俺はタンマ」
彼は羽子板を置き、明子に書かれてしまった額の『肉』を素手で拭いながら屋敷に上がった。素早く手を洗い、手袋をはめ直す。
客間ではチヨが茶菓子を用意していた。
「牛方彦殿に赤角殿。いやはやお懐かしい限りですな。今回は一体どのようなご用件で?」
人懐こい笑みの魁次郎の問いに、赤角は傲慢な態度で答える。
「今しがた、お前の孫が境内に侵入し、初詣と称してぜんざいを食っていた」
「おやおや。悪気はないんですよ」
「悪気のない悪行ほど質の悪いものはない。我々は誠に不快であった」
「そうですか、そうですか」
魁次郎は朗らかに相槌を打つ。チヨは角でやり取りを見ている。
「それを最後にし、今後一切、二人を入れないようお前の方から言うのだ」
すると魁次郎は笑いながら言った。
「ぜんざいくらい、どうってことありませんな」
「じじ!」
ずっと障子越しに耳を傾けていた魃は思わず開けた。牛方彦と赤角は妖怪のくくりに入れてはならない存在であった。位が高く、敵に回してはならないことくらい彼は言われなくても理解できていた。
孫の盗み聞きをわかっていた魁次郎は態度を崩さない。
「いやいや、今のは私個人の意見でありまして。魃、お前さんはどうする?」
「どうするもこうするも、その通りにし」
言い終わる前に、頭を肘置きにされた。
「あたいは親父と同意見だね」
魁はバスタオルを巻いていて、全身から蒸気が出ていた。その熱気と胸の谷間に魃は顔を赤くする。
「魁! 何ですかっ、みっともない!」
チヨが叱るが、魁はフフンと鼻を鳴らす。
「あそこのぜんざいはあたいも好きだったもんでね。久しぶりだな、赤角に牛方彦」
「お前は千堂魁!」
赤角が立ち上がり、角がずどんと天井に突き刺さった。
「ここであったが百年目。忘れはしない、あの日の屈辱晴らしてくれるわ!」
「一体何があったんですか?」
甥っ子の問いに魁は答える。
「小学生ん時、姉さんが栗ぜんざい食べたいって言うから連れてったら、こいつらが文句垂らしてきてね。そこであたいは赤角と相撲をして勝ったのさ。で、あたいと姉さんは牛安天神に自由に来てもいいってことになったんだよ」
「何が相撲だ。お前は組合もせず土俵内を逃げ回り、最後はおれの尻に蹴りを入れたんだぞ!」
「逃げたんじゃない隙を狙ってたんだ。蹴りも立派な決まり手。だったらもっと踏ん張れば良かったろ?」
「おのれぃ!」
赤角は目を血走らせてふてぶてしい彼女に詰め寄る。天井ががりがりと削れて木屑が落ち、チヨは嘆息を漏らした。




