千堂涙鬼はもう学校に行きたくない2
なぜ遠い学校に通っているのか具体的に書いていなかったと気がついたので書き足しました。特に話の前後に影響はないと思います。
千堂家は泰京市北区暮浅緋、それも町外れの日暮山のふもとにあった。人口密度は泰京市の中でも極めて低い田舎。北にあるのに“日暮れ”を意味する地名であるのは、その赤い風景を見た者の立ち位置の問題だったのだろう。
涙鬼はわざわざ市バスを二つ乗りついで中区の菜の花小学校に通っていた。スクールバスを利用しないのは、消えた靴や体操着などを探す間に出発時刻が過ぎてしまうのと、もう他の生徒とできる限り接触したくなかったからだ。
下車し人目を避けるような早歩きで二十分。ようやく家に到着した。
ランドセルを部屋に置き、母親を探す。
「おこづかい」
台所で祖母とともに夕飯の支度をしていた母、魅来を見つけて言う。魅来はほうれん草を切るのを止めて手を拭き、食器棚の引き出しから封筒を取り出す。
「これで足りる?」
涙鬼は二千円を受け取る。今回ばかりはすぐには立ち去らず、しばし口ごもらせ、ようやく言いたいことを口にした。
「母さん。もう学校行きたくない……」
「あらそう」
勇気を出して言ったつもりなのに、母はいつもぼんやりとしていて、この瞬間も困った素振りをしなかった。
「不登校だった子が教育センターっていうとこに通ってる。俺もそこがいい」
「いけません。魃もちゃんと六年間通ったのですよ?」
祖母のチヨが炊事で背を向けたまま口を挟む。
「だって兄さんは」
「出方次第で相手の態度も変わるものです。常に受け身の態勢でいるから、相手も調子に乗り出しゃばるのです」
本来、涙鬼も通っている菜の花小学校は学区外である。それを、遠い方が同級生と近所で鉢合わせすることがないだろうという兄のワガママがあって通わせてもらっているのだ。
当時、そんな理由で指定されていないところに入学できないと祖母が苦言を呈したが、後日に祖父の交渉でなぜか可能になり前例ができたのである。祖父の頑張りを無駄にしないようにと釘を刺されたことを涙鬼も忘れてはいないのだが。
「おばあさんは呪いを持ってない」
孫の恨めしげな語調にも、チヨは「ええそうです」と気丈で、声の調子を変えない。
「持っているのは魁次郎さんの方ですから、呪いを持っている苦しみなど、わたくしは知りません」
割烹着の彼女の背はまっすぐ伸びきっていて、まだまだ涙鬼よりも高い。しかしそれ以上に、涙鬼はこの祖母が遥か高く上に見えた。
もっと近い学校にすれば交通費が安くなる点を交渉材料にしたところで一蹴されるだけなのだろう。兄が六年間通った前例もあって、悔しくてこれ以上何も反論できない。二千円を握りしめて台所を出た。
それから二時間ほど経ってから。
「母さん。涙鬼がまた新しい靴を買ってる。しかも安もんの」
魃は中学校から帰宅するなり、居間でテレビをぼんやり見つめていた母に言う。
「帽子じゃないの?」
魅来が知る涙鬼の趣味といえば帽子だ。元をたどれば顔を陰で隠すためだったのだが、彼もおしゃれを意識しているはず。ハンチング帽やキャスケット、フライトキャップにチューリップ。様々な帽子をそろえているのだから。
とはいえ、二千円で買える帽子などたかが知れている。
魃は学ランのまま、座卓越しに母親と向かい合う。座卓の上で組まれた両手には、運転手を連想させる白い手袋がはめられている。
「母さんの方からみんなに説得してよ。転校はさすがに交渉が面倒なだけだから通信教育にするとか。俺は担任に電話して言ったんだかんな。それだのに全然状況が変わってない」
いじめている奴が誰なのか特定できればいいのだが、弟は何も言ってくれない。担任教師への電話も、いじめている奴を挑発して悪化を招く恐れがあるので一度きりで終わっている。
「じゃあ辰郎さんに言うわね」
母の回答に、魃は半ば諦めうなだれる。この人は何かしら「辰郎さん」「辰郎さん」で頼りっぱなしで、自分の意見をろくに口にしようとはしないのだ。
その頃、涙鬼は道場の真ん中で大の字にうつ伏せになってじっとしていた。
頬がひんやりと冷たい。自分を憎む何もかもが頭の中から伝って出ていくようで、誰も使わない時はいつもこうしていた。
心の中で雨が降っている。
鼓動の代わりに雨音が聞こえる。
道場が水浸しになっていく。
雨水が溜まり、体が浸されていく。
体が浮いてくる。
ぽっかりと、魂が抜けたみたいに。
心の中でまぶたを開かせると、白く輝く何かが下で揺れている。
それが何なのか知っている。
それは……
まぶたの裏が明るくなり、電気がついたと知る。
目を開けると父親が隣に座るところだった。涙鬼は「おかえり」と言おうと唇をもぞもぞ動かしたが、声は出なかった。
「また靴がダメになったんだってな」
涙鬼は眉間にしわを寄せる。
「教育センターに行きたいのか?」
涙鬼はしかめ面を解き、上体を起き上がらせて姿勢を正す。
「おばあさんは駄目って言う」
「そうだな……」
父の凛々しく太い眉が八の字に垂れた。母とは違って、ちゃんと息子のことで悩んでいるとわかる表情に、涙鬼はほんの少しだけ重苦しい気持ちが楽になる。
「なあ、涙鬼。もうじき友だちができるかもしれないぞ?」
「え……?」
「父さんの友だちが今日こっちに帰ってきて、息子がお前の学校に転校してくんだ。名前は日比谷あずまっていう」
「ひび、や?」
「もう少しだけ辛抱してみないか? それでもうダメなら父さんの方から全部話しつけてやる」
「本当? 約束してくれる?」
「その代わり、前向きに考えてみるんだぞ」
友だちが帰ってきたからか、嬉しそうな父。父には親友と呼べる人物がいる。十年前にアメリカへ行ってしまったきり、一度も会えていなかったという話なので当然だろう。
アルバムを見せてもらったこともあるが、“かっちゃん”はとても気難しそうな男のようだ。どれも眉間にしわを寄せて写っているものばかり。
それでも親友だと呼べているのだから、父には心を開いていた、ということなのだろう。
涙鬼はうつむき、無言で首を垂れた。父が頭をなでてくる。
「まあ、でも、よかったよ。お前がちゃんと学校行きたくないって言葉にしてくれて。電気消すから早く出ろ。飯出てるから」
言われて涙鬼は道場から出た。
「ひびや……」
聞こえない程度に呟いてみた。
響きが気に入らない。憎き幅屋と名字が似ている。そいつを拒否さえすれば菜の花に通わなくて済む。そう思えば気持ちがまたほんの少し軽くなった。