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饗庭真帆志はうまく説明できない

 月曜日。今日は崇城が校門前に立ち登校してきた生徒に挨拶をしていた。無愛想に見えるために声をかけられた生徒も挨拶は淡々としている。通過してしまうと、朝から嫌な先生と顔を合わせてしまったと、一緒に登校した者同士でひそやかに笑顔を浮かべ合う。


 崇城が真顔で二人の生徒を振り返っている場をあずまは目にする。彼がここぞという時に涙鬼の味方になってくれた良い先生だと知っているので、駆け寄って笑顔で挨拶をする。


「おはようございます」

「おはよう」


 崇城はぴくりと口角を上げ、スーツの胸ポケットからリングを引っ張る。


「日比谷。これ、見つけておいたぞ」

「あっ! 丸ちゃん!」


 あずまはあの夜、郡司と校舎に行った際にキーホルダーの件を話していたのである。喜々として受け取り、糸一本ほつれていないのを確認できると安心する。


「どこにあったんですか?」

「舞前先生の下駄箱の中にあった」


 教員の下駄箱は盲点で、あずまは「ああ」と感嘆の声を上げた。


「もしかしたらそれのおかげで舞前先生は助かったのかもしれない」


 あずまはきょとんとしたが、崇城は冗談ではなく真面目にそう考えていた。


「子どもが無事であるように、お母さんが心を込めて作ったんだろう。それを手にしたことで、尽きようとしていた精神力が復活した」


 土曜日の午前中、崇城は下駄箱の奥にあったキーホルダーを手にした時にそれを感じた。

 血潮。

 思いがけない純真な力のせせらぎに、睡眠不足で完全には浮遊感が抜き切れていなかった彼の脳は一瞬にして覚醒した。


 定丸は舞前を操ることに集中していたあまり、あるいは舞前を介していたために微力なそれには気がつかなかったのだろうか。子どもを思う母親の愛情が、失いつつあった生徒を思う心にだけ共鳴したというのか。


 あずまはその時のことを教えてもらってないという。もはや無意識の範疇で覚えがないのだと崇城は推測した。


「いいお守りだと思う。大事にしろ」


 母親のことを褒めたのだとわかって、あずまは満面の笑みで「はい」と返事をした。


 教室には既に高矢と縮こまった饗庭がいた。饗庭と目が合い、彼は大きな音と共に立ち上がり、あずまを廊下まで引っ張った。


 泳ぐ目に隈を作り、歯形がついた下唇は赤くめくれている。魃の説教よりも骨身に応えてしまったのか、饗庭はこの土日ですっかり憔悴してしまったようである。ムンクの『叫び』を連想させる顔色で、ガサガサに乾いた唇が歯に引っかかりながら「どうだった?」と小声で問いかけてきて、あずまは哀れに思った。


「千堂くん、がんばってたよ」

「ホントに高矢とやり合ったの……? てかお前、参加してないよな……?」

「参加はしてないけど人質になっちゃってた」

「ええ!?」


 饗庭は文字通り飛び上がり、頭をかきむしった。


「うそだろお前、何捕まっちゃってんのさ!」

「あはは、自分でも何やってんだろって思ったよ」

「笑いごとじゃない!」

「あはは、ごめん。けどもう大丈夫だよ。高矢くんもほら、元に戻ってる」

「もう大丈夫なのは見ればわかるけどさぁ……」


 饗庭は高矢をちらちらと見ては肩をすくめ怯え、「元には戻ってないと思う」とぼそり。


「え、どうして?」

「どうしてって言われても……あれは元の高矢じゃないと思う」

「別の何かに操られてるってこと?」

「ちがう。ちがう。もう大丈夫だってお前も言ったじゃん」


 顔に苛立ちの色が浮かぶも、すぐ近くに高矢がいるのを気にしてか、饗庭の声量は細々としている。しかしゾンビみたいであった顔つきが徐々に戻りつつあった。


「でも高矢くんじゃないんでしょ?」

「誰も高矢じゃないって言ってねーし。元の、高矢じゃないっつってんの」

「いつもと様子が違うってこと?」

「様子? それはそんなに変わってないんじゃないの?」

「でも何かが違うんだよね? 饗庭くんの感覚で」

「うん」


 饗庭は下唇を突き出す。思うように伝えられず悶々とした様子である。

 そんな彼が崇城は良い先生だと発言していたのをあずまは思い出し、微笑みかける。


「饗庭くんは人を見る目がいいのかもしれないね」

「人を見る目?」

「うん。これからはそれをいいことに使っていけばいいよ」

「いいことって例えば?」

「それはこれから一緒に考えていこうよ。あ、ねえねえ、これからは名前で呼んでもいい?」

「え、うん」


 饗庭は思わず許可する。


「じゃあ真帆志くん。今日もよろしく」


 あずまは教室に向かって饗庭の背中を押す。饗庭は二歩だけ踏ん張ったが、すぐさま観念してされるがままとなった。


 高矢の額の青あざは薄まってはいたが、続々と教室に入るクラスメイトたちの興味を引くには充分であった。彼は増えていく視線をものともせず、「あれどう思う?」などといった言葉にも耳をそばだてている様子もなく朝自習をしている。気にしていればもっと遅く登校していただろう。


 あずまは土曜日を振り返る。目覚まし時計もなく、起きた頃には正午になろうとしていた。涙鬼たちも似た時間に起きていたらしく、そろいもそろって眠たさに不機嫌な顔でひとりあずまは笑い三人に不審を抱かせた。


 高矢は早く帰ろうと玄関の方向を聞いてきた。涙鬼は即座に指さすも、その先には穏やかな魁次郎がちょうどいて、共に昼食と取らざるを得ない空気が作られた。

 舞前の姿に高矢は外国人がいると思ったのか目を丸くしていて、しかし誰なのか誰にも尋ねようとはせず、正体を教えてあげても目立った反応を見せなかった。


 食卓に辰郎と魃が来なかった。辰郎は仕事に、魃は友人の家に遊びに行ったらしいが、魃の場合は単に高矢と顔を合わせるのが気まずかったのだろう。


 繰り広げられた主な話題といえばチヨが好んで見ている二時間サスペンスドラマの再放送についてである。やれこの男が怪しいやれこの女が犯人だと、大人に混じって郡司は盛り上がり、涙鬼と高矢は話しかけるなと言わんばかりにテレビ画面を凝視しては黙々と箸を進めていた。

 しかし魅来は彼らの気持ちを組めないようで、いちいち「これおいしいわね」やら「食べやすいわね」やら視線を遮って声をかけ、高矢も「ああはい」と曖昧に受け答えせざるを得なかった。


 高矢がいじめの主犯の一人だと彼らに知られているというのがあずまの認識である。それでも誰一人その話題にせず一貫して世間話で和やかな空間を作り上げていた。

 家族をいじめた張本人を食卓に招き入れる、受け入れるなんて、魁次郎たちの懐の深さに感心する一方で、涙鬼が当然抱えているだろう居心地の悪さを思うと複雑であった。特に高矢は対応を不可解に思っていたに違いなく、精神的な新手の仕返しだとでも怪しんでいたかもしれない。


 きれいに完食してしまうと、高矢はまたしても早く帰ろうとした。対して魁次郎が送り届ける役を買って出た。道中ふたりが何を話したのか、あずまは知らない。

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