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タラ福②~千堂涙鬼は妖怪ではない~

「千堂くん!」


 涙鬼は寸前のところをのけ反った。あずまの叫び声を遠くに感じながら地面に背中を打ちつけた。


 ナイフが雲の切れ間の月と重なる。高矢はくるりと逆手に持ち替え、断頭台の如く刃を涙鬼の喉元に目がけ落とした。


 涙鬼は横へ転がった。上体を起こすと、高矢は前屈みのままナイフを突き出してきた。


 ナイフは竹刀に突き刺さった。抜こうと腕に気を取られた高矢の腹部を蹴り上げる。その硬さに涙鬼は違和感を覚えながらも突き刺さったままのナイフを抜き、折りたたみ式だとわかるや刃をしまい込みズボンのポケットに入れた。


 高矢は背中を曲げて二歩三歩と後退しながらも、目線はずっと射抜いていた。舞前の時と同じお多福の顔をしているが、目のぎらつきが圧倒的に違っている。定丸姉妹の怒りの表れなのか、それとも。


 荒々しい息をしながら、高矢はカーゴポケットからまったく同じデザインのナイフを出す。呆然とした涙鬼の「予備」という呟きに、彼はせせら笑った。


「そりゃあ妖怪を殺すんに準備くらいすんだろーが!」

「千堂くんは妖怪じゃないよ!」


 人質の立場を物怖じせず声を上げるあずまに、定丸は顔を歪ませる。首筋に食い込ませたままのカッターの刃はいつ力んで皮膚を切ってもおかしくはない。


「ッるせーんだよボンボンがぁッ!」


 額に青筋を浮かばせて高矢は怒鳴り散らす。


「友だち思いのふりしてホントは自分のことしか考えてねぇんだろ、なあ? ホントは千堂のこと見下してんだろ?」

「そんなことないよ!」

「毎日毎日、同級生にも先生にもいじめられてかわいそうだもんなあ!? 仲良くしてやりゃあ千堂は喜ぶし、親からはエライって思われるもんなあ!?」

「そんな」

「ムカつくんだよ!」


 高矢の頭を乗っ取り、彼を介して定丸が発言して心を揺さぶっているだけだ。しかしあずまにはこれが彼の本音のようにも聞こえてしまった。


 定丸と高矢は同時にハッとする。高矢は竹刀を避けた。


(くそ!)


 ふたりしてあずまに気を取られていたのに。チャンスをふいにしてしまい涙鬼は内心で悪態をつく。


 わかったことといえば、状況を見渡せるように指揮台に上がっているはずの定丸は、妙に集中していた。集中しすぎて高矢に接近していたことに気づいていなかった。

“姉さん”が高矢から離れてからというもの、しゃべっているのは彼ばかりで定丸は一言も声を出していない。高矢を操るのに必死ということなのか。


 それらに気づいたからといって、利用できる手立ては思いつかない。またあずまが声を上げて、次こそ血を流してしまうかもしれない。


「おい、騒ぐな!」


 そう言ってやると、あずまは唇を内側に引っ込めた。


「落ち着け落ち着け落ち着けっ。俺は氷奴の血を引いてるんだぞっ……!」


 一方、郡司はそう何度も自分に言い聞かせ逃げ続けていた。

 このままでは本当に戦力外だ。それどころか食べられて死んでしまう。


 どんなに走っても歯の音から離れられない。そんな中で、殊久遠寺の泣き顔が脳裏によぎる。

 郡司は正直のところ、彼女が振り下ろした凶器を素手で受け止めた自分自身に驚いていた。涙鬼を助ける方を選んだからといっても、ピアノを諦めてはいなかった。


 あずまにルールを破っていることを指摘され、激しく動揺し涙を落としてから急激に冷静になったのを覚えている。冷静な気持ちで、手を伸ばしたのだ。彼女に酷いことをさせる訳にはいかないから。結局、あれはまずかったと郡司は後悔している。


 またピアノを弾くと約束をした。そう思う時点で、やっぱりどこか冷静なのかもしれない。


 全力疾走をした。飛び散る砂粒がキラキラと光る。

 奴は直進こそ早いが急なUターンは遅いらしい。不気味な白い横顔を過ぎると、走りながら砂を一握りさせる。傷跡のある手のひらを突っ張らせながらもジャングルジムを上る。


 頂上でふらつく足を踏ん張らせた。その時に腕を組む辰郎と目が合った気がした。彼にとってこの危機的状況はまだ手助けしなければならない範囲には入っていないようである。


 息を腹一杯に吸い込むと砂を吹いた。砂粒は一瞬にして氷の針となってタラ福に次々と直撃した。しかし無数の針のほとんどが刺さらずに折れ、刺さっても彼女にとっては鍼灸(しんきゅう)のような程度でしかなく、効果もないまま溶けていった。


 タラ福はジャングルジムにぐにゃりと体を変形させて侵入してぐんぐん上り始めた。


「マジかよマジかよっ……!」


 郡司は滑り台から逃げる。


(俺がなんとかしなきゃ……! もっと上に!)


 校舎裏に回った。職員玄関の鍵穴に息を吹きかけ、穴から出てきた氷を摘まんでひねった。妙な手ごたえに郡司は驚く。


 閉め忘れだろうか。初めから開いていた理由を探す暇もなく、急いで中に入って鍵をかける。真夜中の校舎に忍び込むことに対する罪悪感を覚える余裕はない。


 古びた誘導灯が廊下でぼんやりと点滅している。それより奥は永遠に続いているような真っ暗闇だ。


 誘導灯の下にちらりとショーケースがある。記憶を手繰り寄せた。


 下駄箱の裏に小さく身を隠した。頭の血管が熱くじんじんとして、それに合わせて心臓が鳴っている。


 星明りでわずかに照らされていた玄関に影が覆い尽くす。


 わずかな隙間から侵入している。べたり、べたりと、前足二本が床につく。郡司は冷え切った空気を吸い上げる。


 背筋どころか心臓が凍りついてしまいそうになる。下駄箱越しに、奴が歯を鳴らさずにこちらを探しているのが嫌でもわかる。


 異常に冷たい汗が額からつたう。呼吸が震え、白い息が漏れ、ばれないように祈るように口元を押さえる。


 過ぎ去るのを待った。両肘で腹部を押さえ、叫び出したくなる欲求を無理やり押さえ込む。


 怖い。それでも郡司は涙鬼についてきた後悔だけは絶対にしたくなかった。彼を二度も見捨てはしまい。きっと彼はこれからも千堂家を理由に狙われるだろう。

 せめて人間社会では孤立しないように、味方であり続けたい。それにはまず態度で示さなければなるまい。


 こうしている間に、高矢にやられていたらどうしよう。郡司は慎重に、音を立てないように、見つからないように腰を落としたまま下駄箱を半周していった。タラ福は奥へと進んでいく。


 こつん。小粒の氷が床に跳ねた。それは郡司の冷や汗であった。

 奴の動きが止まり、ゆっくりとUターンしてくる。氷奴としての能力が(あだ)になるとは思ってもみなかった郡司は息が止まった。


 校舎から逃げ出すとして、まずは先ほど閉めた鍵を開けなければならない。それで時間を取られる。

 いっそのこと殊久遠寺にしたように奴の顔を凍らせてみるか。食われるのが先かの勝負である。


(無理だ!)


 恐怖心が勇気より勝ってしまった。


 その時、階段を駆け上がる音がした。タラ福はUターンをやめ足音の主の方へと向かっていった。


 生温い汗が流れた。きっと辰郎が助けてくれたのだ。

 郡司はそっと顔を出して奴の姿が消えたのを確認すると、あくまで音を立てないことを意識して走る。先ほどと同じ手順でショーケースを開け、何らかの優勝旗を手に入れた。


「え?」


 ぼんやりと、そばにあった表彰楯の一つに高矢の名前があった。

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