千堂涙鬼は二度と会話したくない
十九時を回り、千堂家に一本の電話がかかってきた。
「辰郎くん。間に合いそうかい?」
魁次郎は客間から顔を出して廊下の魅来に尋ねた。
涙鬼が深夜に学校へ行くことを把握している辰郎だが、今日はまだ帰宅できていない。
「辰郎さんじゃなくて克義さんだった」
「彼はなんて?」
「あずまちゃんがこっちにいるのかって」
「日比谷くん、帰ってないんですか?」と魁次郎の背後から舞前が掛け布団をまくって膝立ちになる。彼は魁次郎に誘われてリハビリがてらのチェスをしていたところで、かたわらには涙鬼が良かれと思って置いたAIBOがいる。
「状況を知りたいって言ってるの。ランドセルにつけてたGPSが切れてるって。でも辰郎さん、まだ帰ってきてないから折り返すって言ったんだけど、他に説明できる人はいないのかって」
「巻き込まれたと確信してる訳だ」
のんびりとしている魁次郎に対し、舞前の顔色が悪くなっていく。
「僕が、説明します」
「いいや、先生。ここは涙鬼にさせましょう」
立ち上がろうとするのを魁次郎は制止する。
「しかし、僕は担任として」
「大丈夫。大丈夫ですよ」
魁次郎は優しく微笑んだ。
“かっちゃん”と話すよう仕向けられた涙鬼は、今までにない緊張で足取りが重かった。今日という日ほど父親の早い帰宅を望んだことはない。
恐る恐る置かれていた受話器を取り、顔を近づけた。
「もしもし……」
『もしもし』
透き通るような少女の声にぎくりとした。
「え、どちらさんですか……?」
『あずまのお母さんのみさ子です。あなたは涙鬼くんね? はじめまして』
「え、あの。お、お父さんの、方は……」
変に緊張して受話器のコードを指に絡めた。
『替わってもらったの。辰郎さんがいないならもしかして涙鬼くんが出るかなって。わたしの予想は百発百中なの!』
自分よりもずっと大人だとわかっていても、少し年上の子が無邪気に話しているようにしか聞こえなかった。
『克義さんが相手だと、涙鬼くん緊張してうまく伝えられないんじゃないかって思ったの。彼、怖い人だって誤解されやすいから』
「あの、別に。怖い人だって思ってない……」
『ほんと?』
「うん」
写真を見た時に気難しそうな印象は持ったが、怖いとは思わなかった。
みさ子が『克義さん、怖くないって』と近くにいるらしい彼に声をかけている。
彼女の笑い声に涙鬼は気が重くなった。どう話を切り出せばいいのかわからなかった。
『あの子は大丈夫よ』
心の声を読んだかのようにみさ子は言った。
「そんなの、わからん……」
『どうして?』
「わからん」
敵を知らないから大丈夫だなんて言えるのだ。日が落ちても帰ってこない。良くないことに巻き込まれている可能性。にもかかわらず、やせ我慢している訳でもなく本気で余裕を保っている。
パニックに陥って、ヒステリーを起こして、お前のせいだと怒鳴ってくれた方が涙鬼はマシだと思えた。
なぜあずまではなく高矢だったのか。郡司の疑問が頭の中で渦巻いている。しかし結局、奴はあずまにも暗い手を伸ばした。
もしも、あずまも頭を乗っ取られていたら?
あずまが立ちはだかったら?
そう悩んでしまうのを阻止するかのように、みさ子はどんどん質問を投げかけてきた。
『涙鬼くんはこれからどうしようって思ってるの?』
「……夜中の二時に学校行って敵に会ってくる」
『敵に会いに行くの?』
「来いって言われてるから」
『そんな夜遅くに?』
「うん」
『辰郎さんもいっしょ?』
「うん」
『じゃあ辰郎さんが代わりに戦ってくれるの?』
「父さんは見てるだけ」
『見てるだけなんだー』
「いつ敵に襲われるかわからないから、子どものうちからやっつけられるようにならなきゃいけないんだって。でもやばくなったら手を貸すって言ってくれた」
『それって、獅子は我が子を千尋の谷に落とすってこと?』
「なんだそれ」
『大好きだからがんばって! ファイト! って意味』
「なんかいやだ」
『あたしもー』
みさ子はころころ笑った。
『あのね、涙鬼くん。ひとつだけお願いがあるんだけど聞いてくれる?』
「うん」
がんばってあずまを助けてと言うのだろうと涙鬼は構えていたのだが、彼女は予想外な頼みごとをした。
『あずちゃんはね、いつもいいことばかり話してくれるの。みんなハッピーでいてもらいたいから、よくないことは教えてくれないの。だからね。あずちゃんは今夜、涙鬼くんちにお泊りするってことにしといてくれない? お父さんもお母さんもそう思ってるから、話を合わせるようにって、嘘ついてくれる?』
涙鬼は開いた口が塞がらない。
「うそを、つく……?」
『嘘は苦手?』
「苦手とかそういうんじゃなくて……いいんか? 嘘ついても」
『ウン、いいよ。その方があずちゃんもホッとするから』
ああ、あずまの母親なんだなと、涙鬼は肩から壁に寄りかかった。
この人はとてもいい人だ。いい人過ぎて、金輪際、話をしたくない相手だと思えた。
類は友を呼ぶというが、その逆は近寄りがたいということだ。彼女は自分とは正反対の人間だ。本来であれば自分と相容れない人間だ。
通話を終えてから、涙鬼は額をごしごしと赤くなるほどこすった。
(しんどい)
“かっちゃん”が相手だったなら、敵のことを詳しく話さなければならなかっただろう。もしかしたらなぜあずまが巻き込まれてしまったのか、未然に防ぐことはできなかったのかも弁明する羽目になっていたかもしれない。
どんなにどもっても、子ども相手でも容赦はせずはっきりさせるまで通話を切らせなかっただろう。まだそっちの方が疲れなかったはずだと思えた。
振り向くと足元にAIBOが座っていて、驚きのあまり靴下で滑りそうになる。サングラスのような黒い画面にじっと見上げられ、溜め息をつく。
持ち上げる気分にもなれず、すり足で歩くとAIBOがゆっくりとついてくる音がした。現実のロボットも頭がいいのかと思ったが、そういえば“かっちゃん”が特別にいじった銀色の犬であった。
祖父が縁側に腰かけて待っていた。「みさ子さんだったかい?」と立ち上がりながら言った。
「なんでわかる?」
「しんどそうにしてるからさ」
祖父は何でもお見通しという訳である。
「距離が近くて、人懐っこくて、どうしたらいいのかびっくりしただろう? は・は・は」
わかっていたなら代わりに電話に出ればよかったのに。祖父に両頬を雑になでられながら涙鬼は唇をへの字に曲げた。
「自分の子どもが誘拐されたのに笑ってた」
「我が子のお友だちが落ち込んでるんじゃないかって気にかけてるんだよ」
「意味わからん」
「あずまくんはいい子だ。きっと今もお前さんのことを考えてる。だからさ」
ぶすっとした顔で「考えんでもいいのに」とぼやく孫の背中を、魁次郎は軽快に叩いた。
「シャキッとしろ。お前さんは貧弱じゃないぞ。喧嘩をするなら相手の目を見ろ。“これでもかっ、俺はそう簡単には落ちないぞっ、お前は俺には敵わんぞっ”とな、相手の敵愾心を押し潰してやるんだ」
いきなりのことに涙鬼は目を白黒させている。
「敵はお前さんを散々苦しめてきたが、それも今日までだ。“よくも俺をこけにしてくれたな”と遠慮なくやり返して目に物を見せてやれ」
いつもの朗らかな笑みのまま、魁次郎は震わせる握り拳を見せつけた。
一方、辰郎は泰京警察西本部のロビーにある公衆電話で猫背になっていた。電話に出た克義の第一声は『携帯電話を買え』であった。
わざわざ警察署にまで電話をかけてきたので辰郎も緊急的の嫌な予感はしていた。
千堂家に関わって無事でいられる保証をくれよ。親友が帰国したあの日のあの言葉。辰郎は返答できないままでいた。できないとわかっている約束はするべきではないからである。
涙鬼の心を救うための距離。まるで地雷原だ。残りがわからない途方もない時間の中で、ひとりまたひとりと千堂家の人間は誰かに手を差し伸べられてきた。
親友が帰国すると知って、子どもは菜の花小学校に通わせると聞いて、涙鬼を暗闇から引っ張り上げるのはその子だと、辰郎は“決めた”のだ。
辰郎は即興で嘘をつけるような男ではなかった。ありのままを説明すると、受話器の向こうはしばし無言であった。
『……よほどきみは僕に殺されてみたいらしいな。何通りかシミュレーションをしておこう』
「うう、やめてくれ。でも、あずまくんのおかげで涙鬼も変わり始めてるんだ。感謝してるんだよ」
『してなかったらお前は友だちじゃない』
「友だちだよぉ~俺たち友だちだよぉ~絶交しないでくれよぉ~……」
『気色悪い声出すな気色悪い』
呆れて悪態をつくのを久しぶりに聞き、辰郎は懐かしさに笑みを漏らす。克義はさらに呆れて溜め息をつく。
『一つだけ必ず保証するんだ。必ず明日中、無事に家まで連れてこい。絆創膏一枚に収まる程度の傷は大目に見てやる』
克義は一方的に通話を切った。




