余談~鬼札について②~
薬を塗った琥将がぎこちない動きで戻ってきた。
「これスゲーしみんだけど」
「薬が痛みを吸い上げてる証拠だよ。そのうちスッキリするから我慢しな。ほら、背中塗ってやるから」
琥将は観念して裾をまくり背中を出すと、猫のように丸くなった。
さらしたのは威光を損なわせた代償であった。
緑色の打撲痕。肉をえぐり取ったような巨大な引っかき傷。禍々しい手の形をした鉄を朱色に熱したものを押し当てられたような火傷。毒牙に噛まれたような青紫色の刺し傷。
魁さんは軽く眉間にしわを寄せて目を細めた。
「あれだろ。背中ばっか狙われてんだろ。こんなもん普通の医者に見せたら普通の警察巻き込んじまうからさ。相手もそれを狙ってんだろ。琥将家にかかりつけはいねえのか?」
じっと固まっている大きな背中に、彼女は優しい手つきで抹茶色の薬を乗せていった。
琥将はくぐもった声で「いるけど」と曖昧に答えた。元から家族に対する信頼にぐらつきがあった彼である。琥将家の息がかかっている者の手を借りることに抵抗があった。千堂家の娘から手を引けと言われてしまえば、彼の心はますます家から離れていっただろう。
彼が抱えている思いを魁さんも感じ取ったらしく、いるなら普段からそこに行けとは言わず、「信頼できる医者って見つけんの大変だよなあ」とのんびりとした声音で言った。
「よし、おわり。あまったからやるよ。また用意しとくからさ」
「ありがとう」
琥将はぬるくなったお茶を飲んだ。
「一服したら庭に出な」
魁さんは一足先に庭に出て、伸び伸びとラジオ体操を始めた。
「どら焼きおいしいわね」
琥将が黙々とどら焼きを食べていると、魅来さんは三個目を手にして言った。彼女はやっぱりいつもの様子で、琥将の背中のことなどまるで気にしていないように見えた。
魅来さんは、今まで一度たりとも誰かに助けを求めたことはない。魁さんも琥将も、自発的に彼女を助け続けているに過ぎなかった。
魅来さんが自ら敵に立ち向かっていくのを、僕は見たことがなかった。もし誰も救いの手を差し伸べなければ、彼女は何ら抵抗もないまま殺されているのだろう。そこに恐怖はなく、かといって諦念している訳でもなく、ただ死ぬのである。
彼女は毎日おいしいものを食べることだけを楽しみに、ただ生きているだけ。言い換えてみれば、毎日が最後の晩餐なのである。いつ殺されてしまってもいいように、満足感のある食事を無意識に求めているのである。
だから人の名前は最低限しか覚えない。最低限の話しか聞かない。興味を持たない。感情も持たない。そうすることによって、あっさり死を向かい入れることができてしまうのだろう。
そんな彼女が琥将の名前を覚え、琥将へ贈り物を考えた。そして「どら焼きおいしいわね」と三個目でやっと、彼に向かって微笑んだ。
琥将は涙と満面の笑みを浮かべた。だから僕は、友人が酷い怪我を負い続けているにもかかわらず、まったくの無関心を決めている魅来さんのことを責める気にはならなかった。誰かが彼女の態度を咎めようものならお門違いだと非難するだろう。彼女は間違いなく、変わろうとしていた。
「これが鬼札よ。これに念を送るといろんな効果があるの」
庭に出た僕たちは、魅来さんが用意した紙切れ一枚に注目した。
それは神社や寺にあるような厳かなものではなく、速記のようなものを人型に書き連ねた奇妙な御札であった。
本来、これは鬼を惑わし倒すために編み出された道具であったのが、やがて鬼たちから身を守るため、正当防衛の道具へと用途が変わっていったのだという。
「作った人と使った人の念の強さで効力も変わるの。私は作る方が向いてるみたい」
「念?」と琥将は鬼札を左手で透かすように見上げた。
「その札は私が作ったのよ」
「えっ! 手づくりっ? うふふふふん」
琥将はくねくねした。「きしょくわりーな」と魁さんが白い目で言った。
「ほら、浮かれてないでさっさと念を込めてみろ」
「なんかもったいなくない?」
「せっかく姉ちゃんが用意した意味なくなんじゃん。それこそ姉ちゃんの込めた気持ちがもったいない、だろ?」
「ミクちゃんのキモチ。ムダにしたくない」
「そうだ。無駄にすんな」
「ムダにしない」
「そうだ」
琥将は鬼札を前に突き出し、眉間にしわを寄せた。
すると、鬼札からちょろちょろと水が出た。
「がははっ! まるで小便だな!」
「うるせーな! しょうがねえだろ、はじめてなんだから!」
豪快に笑う魁さんに対し、琥将は恥ずかしさに怒鳴った。僕は一般的な感覚で「水が……」と唖然とした。
二枚目。
琥将は先ほどより、ぐぬぬと青筋が浮かぶほど顔に力を込めた。
「ワッ!」
結果、ドンッと水が噴き出した。
「やるじゃねーかタツロー!」
「なんて非科学的な紙なんだ……」
どばあっとおびただしく噴出する水と小さな虹。水浸しになる庭。琥将は「わーとまんねーッ」と慌てながら走り回った。
「ふふふ」
隣を見ると、魅来さんが声を出して笑っていた。初めて聞いた可愛らしい笑い声に、僕は嫉妬されないように黙っておくことにした。
ようやく水が止まると、ついでのように僕も鬼札を持たされた。管先輩が言った僕の運命の相手の存在を琥将がずっと気にしていたからである。
僕は小便小僧のようにしか水を出せなかった。もっと気持ちを込めるよう琥将に助言をもらったが、水量は変わらなかった。
「魁ッ! 一体何ですかこの状況は!」
庭に出てきたチヨさんが怒った。
「あたいじゃねーよ! 全部タツローが!」
「監督責任です! ちゃんと元通りにしてもらわないと困りますよッ!」
「ちぇーッ」
魁さんは水たまりを蹴った。
この日以降、琥将はいつも背中に鬼札を貼っていたという。




