日比谷克義は不安しかない2
辰郎は小走りで国際空港内に入る。電光掲示板を見上げた後、革ベルトがぼろぼろの腕時計を見る。
そろそろ来るだろう。到着ロビーで二人が現れるのを今か今かとうろつき、あっと表情をほころばせる。
「あ、彼よ。ほら、グレーのスーツの」
「髪でわかるじゃないか」
子どものように手を振っている。ツーブロックに刈り上げた生まれつきの黄色い髪はいい意味でも悪い意味でも昔からよく目立つ。あれで今では部下に慕われる立派な公務員だというのだから世も末だ。
「おい久しぶりだな! 元気にしてたか? オールバックやめたのか?」
辰郎は駆け寄って開口一番はつらつとした。「その方がカッコいいぜェ」と片腕をばしばし叩かれ、克義は眉を歪ませ上体をひねる。衰えの知らない馬鹿力だ。
しかし仕事柄なのか、目元は青黒く、肌の方は荒れているようにも見える。満足に眠れていないのだろう。
「そう興奮しないでくれないか?」
「老けたのに性格はちっとも変わりねぇな、かっちゃん」
「それはお前もだろ」
だな、と辰郎は視線を下ろし、しゃがみ込んだ。あずまは長躯の男に怯え、母親の腕にしがみついて一歩後ろへ下がる。
辰郎は昔から元気だけが取り柄で顔つきにも人の良さが表れていたが、ふとした瞬間に真顔になると本来の強面が明らかになり、初めて見たその鋭い目にはぎくりさせられたのを克義は覚えている。もしまた真顔になろうものなら、今の不健康さも相まってあずまには見せられそうにない。
克義にそう思われているなど露知らない辰郎は、友人の子どもの存在に浮かれているようである。
何せ、無事産まれてきてくれたことを念のために電話で報告してみたところ「お父さんどうしたの? でんわに怒られたの?」と幼い子どもが心配しているのが聞こえてきたほどの、まさかの男泣き。
「ずっと祈っててよかった。もうホントずっと、東に向かって祈ってた」と嗚咽混じりに明かされて、日本からアメリカは北東だと教えてやると、今度は「すげー祈ってたから五割も十割」とタツロー理論を返されてしまった訳で。克義にとっては何度思い出しても失笑ものである。
「へぇ、みさ子さんにそっくりだな」
一歩下がられても手は届く。辰郎は小さな頭をごしごしとなでて、歯をにっと見せて笑った。
「はじめまして。おじさんはお父さんのお友だちで、辰郎ってんだ。おじさんにもあずまくんと同じくらいの息子がいんだなぁ。でへへ」
警戒心で固まっていた少年は、男の緊張感のない笑顔を見てつられたように口元を緩ませた。
辰郎は克義を見上げる。
「四年生だろ? 通う学校は決まってんのか?」
「候補だったら、みさ子の母校の菜の花」
「一緒じゃん!」
最後まで話を聞かない辰郎。
「一緒一緒! 一緒だよ、涙鬼と」
それを聞いてみさ子は花を咲かせるかのように笑顔を輝かせる。
「そうだったのね。じゃあお友だちにならないといけないわね、あずちゃん」
「ともだち……?」
あずまはまつ毛を震わせながら母を見つめる。
「おじさんからも頼むよ。あいつ、友だちいないんだ」
あずまはおじさんを見つめる。辰郎と名乗った男は眉を八の字にして、凛とした目も悲しそうにしていた。
「さて、車用意してあるから送るぜ。病院だろ?」
辰郎は立ち上がって言う。彼もみさ子の体の弱さはよく知っていた。
「仕事はいいのか?」
「いいっていいって、どうせみんな昼飯食ってんだから」
頼んでもいないのにアタッシュケースを奪い取り、肩に引っ提げた。
「荷物はこれだけなのか?」
「残りはもう送ってある。相変わらずずかずかと……」
克義が小言を並べている間にも辰郎はずんずんと歩き出していた。
泰京市に移動し、予約しておいた病院に到着する。みさ子が検査をしている間、男三人は待合室で待機していた。
「お父さん、トイレに行ってきてもいいですか?」
「場所わかるか?」
「うん、さっき見た。これ持ってて」
あずまは飛行機を父親の手のひらに置くとトイレに向かった。
克義は足を組み、辰郎に話を切り出す。
「いじめにでも遭っているか。次男坊は」
「なんにも言わないけどな。あいつは本当、暗い。ベリーにシャイだね」
おちゃらけてみせながらも、友人の眼差しは強い。蛍光灯の光で瞳が琥珀色に、ぎらりと。
「部位は? 長男坊は両手の甲だったか……」
「涙鬼は右目とその周囲だ」
では眼帯は余儀なくされている。それを想像しながらも克義は溜め息交じりに言う。
「さっきはみさ子の手前、何も言わなかったが……うちの子に友だちになれとか、無理なこと頼むな」
「言い出したのはみさ子さんだろ」
「どっちにしても無理だ」
「なんでそう言い切れる」
「琥将」
克義は辰郎の旧姓を強めに言った。
「僕たちは、高校生だった。それにお前は僕と違ってふつうじゃない。だからこそ、言っちゃあ悪いが魅来さんと釣り合うことができたし、千堂家に婿入りするまでに至ったんだ。今あずまは小学生で、僕と同じで普通なんだよ。鵜呑みにさせられない」
「じゃあ、いつまでもひとりにしとけってか? それじゃ余計にふつうの神経じゃなくなる。俺は今できる限りふつうの学校生活を送ってほしいんだ。そうすれば魃だって少しは進学のことを考えるかもしれねぇし……」
「千堂家に関わって無事でいられる保証をくれよ」
現実的で刺々しい友人の言葉。痛いところを突かれ、辰郎は口ごもる。
克義は嘆息を漏らす。
「できることならあずまにも、ごく平凡な小学生になってほしいと思ってる。だからこっちに戻ってきたんじゃないか」
こっちも難渋している。そう克義は目で訴えた。
「詳しい話はまだだったな。なんで日本に帰ってきたんだ? てっきり永住する気でいると思ってたかんな」
「彼女のわがままでね。仕事ならこっちでも続けられる。あの子をこれ以上あの環境に居させる訳にはいかなかったから飲んだんだ」
「どういうことだ?」
「大切なコンピューターが壊れされてパニックになった」
「壊された?」
「こっちの話だ。カウンセリングに通った。責任は僕にある」
「そんな思いつめんなよ」
「天才なんだ。さっきは意味合いとして普通と言ったが。僕の年にでもなれば、遥かに僕を越えてる」
「随分高い評価だな」
「そうじゃない。怖いんだよ。嫉妬とかそういう意味じゃなくて」
克義は渋い顔をして、自分自身を戒めているかのように言う。
「天才は世間に狂わせる。コンピューターと違って人間は、壊れたら半永久的に終わりなんだよ。どんなに腕利きの医者に診てもらって、どんなに本人が根気強くたって、取り返しのつかないことがある。今は本人もパソコンに近づこうとしない。シャットアウトしてるんだ。いっそそのままでいてほしいと思ってるんだこっちは」
「親馬鹿なのはお互い様か」
辰郎は苦笑した。
互いに息子にとって何が最善か、霧の中を手さぐりにさまよっている最中だ。
すると、克義はこれでこの話は終わりだと言わんばかりに組んでいた足を戻した。
「で、同僚も昼飯食い終わったんじゃないか?」
「仕方ねぇ。お前の命令通りここから退散してやんぜ。たまには俺んちに来いよな。ミクちゃんも喜ぶから」
「想像つかないね」
あずまが戻って来たので、辰郎は「じゃな」ともう一度頭をなでてから立ち去った。
「たつろうさん、帰ったの?」
あずまは飛行機を受け取って座る。
「お父さん」
「ん?」
「るいきくんはどうして友だちがいないの? お父さんはたつろうさんと友だちだから知ってるよね?」
子ども特有の純粋な丸い瞳で見つめてくる息子に、克義はまた癖で眼鏡を押さえる。彼はそうやって後ろめたさなどから目を合わせまいと拒否反応がつい出てしまう。みさ子によく似た眼差しなら尚更に。
「知らなくていい」
「どうして?」
「知らなくていいから、その子と友だちになってやれ」
唇の片端を優しく吊り上げ微笑めば「わかりました」とあずまはにっこりと笑顔で頷いた。いじめられている子と仲良くしようとするということはどういうことなのか、理解していないのだ。
(わかっているさ、琥将。お前の方が深刻ってことくらい……)
互いの子どもに関する問題を比較したくはない。ただ、自分が胸に抱いている不安が世界に向かって横に広がっているとすれば、あの男の不安は縦に、それも深い先の見えない地獄に向かっているのだ。
(どいつもこいつも平気で笑いかけやがって)
真の平穏は心の中に訪れることはない。克義は心の中で毒舌を振るい、かけがえのない妻の帰りを待った。
さすがに毎日の投稿はできないんですけど、がんばります。