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先生の指は曲がらない

 二度も肉体を乗っ取られないよう、舞前はしばらく千堂家で休養することとなった。もちろん治療のためでもあるが、たった一日で顔が変化したとなっては周りも勘繰ってしまう。


 そう言われて、彼は素直に世話になることを了承した。それでも困惑の色を残し続けているのは、涙鬼のことで強い後ろめたさがあるからである。


 涙鬼はそれを理解し、あえて黙っていた。

 悪いのは“ヤツ”だ。だから先生が気に病む必要はないと言ったところで、舞前は余計に自分を責めるだろうから。


 ただ、先生の手は元に戻るのか? それだけが気がかりであった。


「ほとぼりが冷めてから、腕の立つ人を紹介しますから」

「え、かかりつけの医者っているん?」


 チヨの言葉に魃が疑問を呈したのは当然のことであった。千堂家の血が流れている者は医者いらず。治癒力と、もとより呪いがある部位を見られては珍しい事例としてややこしいことになりかねないからである。

 千堂家を知らない人間の方が大半となった現在において、余計な事態は極力避けなければならない。


 だからといって、千堂家の血が流れていない身内に怪我をするな、風邪を引くな、病院に行くなと無理強いはできない。

 ところが千堂チヨという老女はタフである。千堂家を忌まわしく思う者たちから目をつけられないよう、医者をいざこざに巻き込まないことを見事に守り続けているのだ。


「結婚前に一度だけお世話になった人です。個人でやっていて態度は粗暴だし近所の評判も悪いようですが、腕だけは確かです」

「そんな奴に任せてもいいん?」

「たとえ軍勢に脅されたとして屁でもない人ですから」


 そういう意味で言ったんじゃないんだけど。そう言いたげな魃の流し目を、舞前は弱々しい微苦笑を浮かべながら見上げている。


 そんな先生に、あずまは遠慮がちに言った。


「あのね、先生」

「なあに?」

「キーホルダーなんだけど」


 舞前は決まりが悪いとばかりに眉尻を下げた。


 先生の許可をもらったあずまは、翌朝に郡司と職員室に訪れデスクの引き出しからキーホルダーを探した。見つからなかった。


「もしかしてあの子が持ってるのなぁ……?」

「だといいんだけど」

「直接言えば返してくれるかな?」


 冗談交じりとも思えぬお人好しの提案に、郡司は缶バッジの裏側をこすりながら溜め息混じりに「バカ言うなよ」と言った。


 ふと、郡司は視線に気づく。珠久遠寺が戸を少し開かせて右目を覗かせていた。


「和子」


 廊下に出ると、彼女は肩を落としてうつむき、唇を卑屈に尖らせていた。


「夢じゃなかった」

「え?」


 殊久遠寺は包帯が巻かれた手を指差す。


「ピアノ、弾けない。ワコのせい」

「これ? 違うよ。練習のしすぎで腱鞘炎(けんしょうえん)になっただけ」

「ウソだもん。ワコ覚えてるんだもんっ」


 彼女は地団駄を踏んだ。


「きっと夢だよ。お前廊下でぐったりしてたんだぜ? 貧血には気をつけろよな」


 郡司は爽やかに笑ってみせた。納得いかない珠久遠寺は仏頂面である。


「ウソだもん……」

「すぐ治るから。コンクールが終わったらなんでも弾いてあげるから」

「気球に乗ってどこまでも」

「弾いてあげるから、な?」

「もん」


 ずいと小さな小指を出してきたので、郡司は指切りをした。


 ふたりのやり取りを見て、あずまは舞前の憂いと忠告を思い出す。


『お願いだから。子どものケンカでも限度があるんだよ? 危ないと思ったらすぐ安全なところまで避難するんだよ? 無茶はしないで。いいね、先生と約束してね』


 一日でも早く復帰して擁護したい思いがあふれんばかりに。涙鬼と指切りをしていた。いや、あれは指切りといえる形だったのだろうか。


 涙鬼は先生のピクリとしか曲げられていなかった指を無表情で見下ろしていた。チヨが信頼している医者に診てもらえるとして、完治できると保証された訳ではない。周囲の評価もそうすんなりと変わらないだろう。それでも舞前は自分の生徒のことを最優先に思っている。


 無表情。でも無感情ではなかった。千堂涙鬼の小さく芽生えた決心というものを、その時あずまは感じたのである。


 そして涙鬼は今、菜の花に着いた。役に立つかはわからないが、木刀袋をしっかり握り締め担いでいる。


 背後から仄暗い気配があった。


「絶対に許さない」


 耳元でそう囁き、定丸は一足先に校舎へ入っていった。後ろ姿はごく平凡なショートボブの小学生。

 涙鬼は彼女を追いかけようとはせず、自分の速度で校舎へ向かった。


 靴を履き替えていると、饗庭がこそこそと盗人のように近づいてきた。目が合うなり彼は固まる。


「……幅屋か?」

「いやいやいや、いやいやいやいや!」


 奴の差し金かと思いきや、饗庭はぶんぶんと頭を横に振りながら自分の罪をまくし立てるのだった。


「あ、謝るから。もう何もしないから。ホントにもう何も。スライムも入れないしミミズも入れないし、セミの死骸もネズミの死骸もモグラの死骸も入れないし。ウンコもしない」

「やっぱりあれはお前か……」


 涙鬼が真顔で詰め寄ると、饗庭は挙動不審に弁解する。


「あわわ、あの時はたまたまホント我慢できなくて、幅屋がそこでしろって、ホント! あっ、靴をボロボロにしたり、泥ぶちまけたのは高矢だから! 墨汁のやつも!」


 涙鬼は顔をしかめる。元々汗っかきなのか、あっという間に饗庭の額に汗がぽつぽつと出ていた。


「ホントに、なんでもしますから。これからは幅屋じゃなくて千堂……千堂くんの言うことなんでも聞くから、ホント。へへへ……」


 必死に愛想笑いをしてみせる。背後にいる兄の存在が脅威で仕方ないのだ。だからあえて幅屋の懐に入ったように、今度はこちらに距離を詰めようとしている。


 この勇気の使い方は一体何なのか。一体何を言われたのかは知らないが、手のひらを返して胡麻をする気味の悪い態度に涙鬼はほとほと呆れてしまう。


 散々いじめてきたくせに。水を流して仲良くしようなどと、ありえない。


「俺はそういうのはいらん」

「へ、へへ……」

「定丸とはいつから一緒にいた?」

「へ? いつから、だったかな……? 気づいた時には幅屋と一緒にいたし……」


 質問の意図がわからなかった饗庭は愛想笑いを解いて首をかしげる。居たたまれないのか、またしても彼は首を亀のように引っ込めて二重あごを作り、目を泳がせる


「あと……いや僕は悪くないって言う訳じゃあないんだけど。元々定丸が千堂くんの右目のこと言い出したんだ」

「なに?」

「あ、いや、そのね。それで幅屋は千堂くんに、本格的に目をつけ始めたって感じ」


 最初からあいつは幅屋を利用するつもりだった。涙鬼は渋い顔になる。


「定丸には気をつけろ。頭を乗っ取られるぞ」

「あた、ま……?」


 饗庭は意味がわからなかった。


「あいつは俺を狙ってるから、しばらく俺と関わるな」

「それ、さりげなく僕のこと心配してる……?」

「知らん、うんこめ。女子にももう迷惑かけるな」


 涙鬼は冷淡に言い放ち階段を上った。饗庭はその場で明るい声で言い放つ。


「もうしないよ、ホント! 饗庭真帆志(まほし)、改心します、ホント! 女子にも優しくなります、ホント!」


 ホントホントとうるさい奴め。涙鬼は馬鹿にした顔で見下ろした。


 昨日の放課後の涙鬼たちのとんでもない様子から幅屋たちの仕業だったのではないか、涙鬼は木刀で仕返しをしようとしているのではないか、舞前が休んだのも関係があるのではないかと、クラスメイトの話題はそれなりに大きかったが当人に直接話を聞く子は現れなかった。


 あんなに怯えていた饗庭が妙にすっきりした顔色で授業に参加していたのが更なる憶測を呼んだが、饗庭が涙鬼にすり寄ったことを知らない幅屋はおとなしく、高矢もにらんでくるだけで何もしてこない。


 涙鬼もあずまも郡司も、それぞれ定丸を気にしていたが、彼女は怪しい動きを見せないまま、何事もなく下校時間となった。


 嵐の前の静けさ。郡司はそれを悟っていた。

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