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千堂涙鬼は悪くない2

 あずまからの連絡によって、辰郎はすぐに車でやってきた。


 千堂涙鬼は顔面血まみれで、父親は両手を酷く負傷している謎の男をおぶっている。殊久遠寺和子は涙を濡らした青い顔でぐったりしていて、それを郡司吉祥がおぶっている。学校に残っていた児童は何事かといろんな感情を持った眼差しを四方八方から向けた。


 涙鬼の顔の腫れはとっくに引いて傷口もふさがっていたが、すっかり固まった血によって表情が(つくろ)えず、B級ホラー映画の怪人のようなおどろおどろしさがあった。妖怪と呼ばれていることを知る子は真に迫っていると感じ、堂々と廊下を歩く姿に恐れをなす。


 一体何があったのか、真顔で「何も心配いりません」と渋く告げる辰郎に、教員たちは二の句が告げなかった。涙鬼の父親が警察官だという事実も保証になっていた。


「あの方は警察の方だから――」と教員同士でやり取りしているのを郡司は耳にして、近くで女子のグループがこそこそ話しているのを見た。

 女子の噂話は広まるのが早い。男子中学生がいじめのことを聞き込みしていた件もあるので、“千堂をいじめていた奴らは警察に目をつけられている”“警察に顔と名前を覚えられる”と大袈裟ながらもどこか現実じみた噂が流れることだろう。


 最初から利用できるものは利用すればよかったのだ。幅屋に無理やりガーゼを引っぺがされた時に名誉棄損なり傷害なりで訴えてやると、警察である父に言ってやると脅してやればよかったのだ。


 そんなことを考えたところで今更である。涙鬼が何を思って黙っていたのか、自尊心を優先させていた自分が考えることではないと、郡司は重みでずり落ちてきていた殊久遠寺を背負い直した。


 彼も手に怪我を負っているので、初めはあずまが殊久遠寺をおんぶすると言った。だが郡司は出血を自身の力で凝固させ、痛みもマヒさせた。男子としてのあずまの腕の細さはどうも頼りなさそうであったし、殊久遠寺の心を傷つけた責任を感じていたからである。

 彼女が知ればきっと負い目を感じて自分の足で歩こうと暴れるだろう。パトロンとして医療費もろもろ出そうとさえするかもしれない。


 舞前を助手席に、子どもたちは後部座席に詰めた。

 まずは珠久遠寺を自宅へ送り届けると、モミジの剪定(せんてい)をしていた庭師が「和子お嬢さま!」と仰天し、座っていた脚立から滑るように飛び降りた。門の外で会釈をする辰郎の姿を確認するや、血相を変えてキャスケットを取って深々と白髪頭を下げた。


 琥将家に関しているのだろうかと郡司は疑問に思うが口にするまでもなく、庭師は殊久遠寺を運び入れたあと早急に戻ってきた。ぶん、と風を唸らせるかというほどに、運転席の辰郎にもう一度頭を下げると、声を震わせながら早口で言うのだった。


「危険を察知していながら知らぬふりをしておりました。申し訳ございません」


 舞前の手に気づいてより一層に青ざめるのだった。


 辰郎は怒りも笑いもせず、ゆるいピースサインを作った。庭師は無言で一歩下がり、辰郎の運転する車が去っていくのを最後まで見ていた。


「和子ちゃん、怒られないかな」


 あずまは呟く。


「巻き込まれないようにするには無視するのが一番。それが誤りだってのは前々から言われてる話なんだけどなあ。堅物が上で長生きしてるとうまくいかないもんだなあ。まあ、あの子は無傷で済んでるし、慧眼の素質を持っているみたいだし、家族に何言われても味方でいてくれる子なんじゃないか?」


 バックミラーの辰郎の口元はほころんでいた。あずまは「けいがんの素質?」と首をかしげる。


「“殊久遠寺家の人間から援助を受ける者は成功を約束されている”“成功者の裏には殊久遠寺の金あり”なんて言われてるくらいだったんだけどな。ここ近年は山城(やましろ)家の方が金の巡りがいいらしい」

「いろんな家があるんだね」

「確かあそこの娘さんはお前たちと同年代だったはずだから、中学か高校に上がった時に顔を合わせるかもしれないな。仲良くしといた方がいいかもしれないぞ」


 辰郎は冗談めかして笑った。


「代が変わるたびに泰京市のパワーバランスが変わるから、面白いくらいにみんな右往左往してる。軽んじてた奴があとになって大物になるなんてよくある話だ」


「コイキングがギャラドスになるみたいに」とポケモンを例えに上げた大人に、あずまと郡司はきょとんと顔を見合わせた。


 千堂邸に到着すると魁次郎とチヨが門扉の前で待っていた。チヨは涙鬼に早く顔を洗うよう眉をひそめて言い、魁次郎は軽々と舞前を横抱きにして家に入っていった。


「すみません、後は頼みます」


 辰郎はぺこぺこと頭を下げて仕事に戻り、魅来とチヨが怪我人の手当てをした。その間に魃が帰宅して、客人の多さに驚いた。


 郡司はこの人物が例の中学生だと会釈をする。社交的な雰囲気を持ち、陽気な表情でありながら、客間に敷かれた布団の上で落ち窪んだ目を閉じている舞前に、ほんの一瞬向けた陰気な目を郡司は見逃さなかった。


 やがて舞前は意識を取り戻し、おかゆを自力で食べようと両手を伸ばしたが、チヨにペチリと手首を叩かれた。彼はされるがまま、ゆっくりとおかゆを食べ、実家の祖母を思い出したらしく涙を流した。


「先生はいつから体を乗っ取られていたんだ……?」


 涙鬼は一番の疑問を投げかけた。


「菜の花に行くことが決まって……新学期が始まる前日、だったかな? 眠りにつく時、女の子の笑い声が聞こえたと思ったら目の前が真っ暗になって、体の自由が利かなくなっちゃったんだよね。自分の声が聞こえる方へあがいていくとね、暗闇の中に明かりが二つあって、そこから外の景色が見えて……」


 天井をぼうっと見つめながら舞前は答えた。郡司が手に巻かれた包帯をさすりながら「半年以上もずっと、見てたってことか」と呟く。


 涙鬼はずっと敵だとしか見ていなかった。ところがそうではなかった。

 最初から味方はいたのだ。もし彼が諦めて完全に取り込まれていたら、もっと良くないことが起こっていたに違いない。


 舞前は溜め息をつき、枕に頭をゆだねる。


「勝手に授業は進めるし、勝手に僕の口調をまねするし……。おまけにいじめを見て見ぬふりするなんて最低だ……。みんな僕のこと嫌ってるよねぇ……」


 内側から眺めるだけしかできなかった舞前にとって辛い日々だったのだ。それを知らず先生のことを気味悪く思ってしまったあずまも反省する。


「他の先生は気づかなかったんですか? 新学期が始まる前に顔は見せるでしょ?」

「そうだね、日比谷くん。でも、春休み中に一気に太ったってこの口が勝手に言ったから、校長先生たちは妙に納得して……。似てるかなぁ?」


 あずまは「ううん」ときっぱり否定する。仮にこの顔が肥えたとしても、お多福顔には成り得ないだろう。舞前ベノワ優祐(ゆうすけ)はカナダ人の母を持つハーフであり、それまでなかったそばかすが頬にあった。


「その女の子というのが気になりますね、わたくしは。菜の花小学校の生徒かもしれません」


 チヨに視線が集まった。


「そうか、幅屋たちが同じクラスに集まったのも、そういうことなのか」


 郡司は納得する。最初から児童として紛れ込んでいたのなら、誰が涙鬼をいじめ抜くことができるか判別できるし、教員を乗っ取れば自由にクラス分けも行うことができる。


「わざわざ担任を乗っ取ってまでの執着。舞前先生、その声に聞き覚えはございませんか?」


 舞前は唸る。チヨは涙鬼と向かい合う。


「涙鬼。次にその子が仕かけてきた時は、構わず受けて立ちなさい」

「でも」

「確かにご先祖様は報復を受けて当然のことをしてきました。わたくしたちはその責任を最後まで果たさなければなりません。だからといって自棄になり、相手の攻撃をやたらに受け倒れてはなりません。そんなもの、責任を取ったとはけして言えません」


 チヨはきつめに言い聞かせた。


「いいですか? あなた自身は悪くないのですよ?」


 涙鬼は目を見張る。


「大切なのは、ご先祖様の犯した過ちを忘れず、末代まで伝えていくことにあります。けして仕返しされ続け、それを我慢することではありませんよ。何もせず無防備でいると、相手はいい気になるのが当たり前。やがては立場が逆転し、まるでこちらが被害者のようになります。教室のいじめでは被害者でも、この件は違います。よろしいですか?」

「……はい」


 祖母の言うことはいつも厳しい。呪いを持っていないのに、呪いを持つ苦しみがわからないのに。それでも彼女は祖父の代わりに千堂家としての責任を教えるのである。それがいつも腹正しかったのに、“悪くない”とあずまと同じことをまっすぐに言われてしまっては毒気が抜かれる。


 魃も静かに祖母の話に耳を傾けていた。


「婆さんはいつもじじのことをかばってくれたんだよ」


 魁次郎がニコニコと涙鬼に言うと、チヨはうっとうしそうに「おだまり」と一蹴した。


 続いてチヨは郡司に向き合う。郡司は慌てて崩していた姿勢を正した。


「あなたのことは辰郎さんから伺っております。この子のために大変決断に苦しんだでしょう」

「あ、いや、こちらこそ……。天神ぞ、とは言えませんが、これからは微力ながら自分の意思で彼を援護させていただきます」

「しっかりした子ですね」


 チヨは柔和で温厚な笑顔で、頭を下げる彼の怪我した手を片手で優しく取り、その上にもう片手を重ねた。


「神に忘れ去られていても、わたくしたちは忘れませんよ。ありがとう」


 郡司は頬を赤らめた。


「本当に吉祥くんってすごいね。フッて息を吹いたら凍っちゃうんだから」

「立冬だったからだよ。冬がまだ始まってなかったら、あんな簡単にはいかなかった」


 あずまに言われてますます照れ臭いのか、彼は頬をかく。


「ナスでも炊こうかしら」


 これまた奇妙なタイミングで魅来は呟いた。そこで舞前が「あのう」と遠慮がちに挙手した。


「できれば信じたくはないし、確信も持てないんですけども……」


 彼が口に出した人物の名前を聞いて、郡司は「あっ」と声を上げた。

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