先生は許せない
引き続きの暴力、そして流血回になります。
「千堂くん!」
バチン! と、破裂音が聞こえた。舞前が涙鬼を竹刀で叩いたのだと理解した。
あずまは戸にしがみつくようにして踏ん張り続けた。ほんのりと明かりが差し込む隙間はがたがた鳴り、指が痛くなるばかりである。
「吉祥くんも手伝ってよ!」
彼は戸から離れて以降は後ろに突っ立っているだけで何もしない。
「吉祥くん!」
「お願いだから俺に頼るなよッ!」
郡司は悲痛な声で叫んだ。
「千堂家の苦しい時の神頼みは通用しないんだよ! 言っただろ、動けないんだよッ!」
バチン! と、破裂音が耳をつんざく。郡司はびくりと微動するが歩み寄ろうとはしなかった。
あずまの苛立ち、怒りが上昇したのは一目瞭然である。感情的に開かれた大きな目が戸の隙間の明かりでほのかに群青色の光を見せた。
「だったらなんで話しかけたんだ」
冷たい、そして熱い声音。矛盾した感情が郡司の胸に更なる痛みをもたらす。
「千堂くんにとって友だちができることが救いなんだよ? それなのにきみは何度も話しかけたって言った。何もできないなら最初から何もするなよ! 最初からきみはルールを破ってるじゃないかッ!」
突きつけられた事実に郡司は愕然とした。
「俺は、菅原、大、天、神、さ、ま、の……」
唇を震わせ、茫然自失となった。おぼつかない足取りで後ずさりして、跳び箱にぶつかるやがくりとうなだれてしまった。
ぶつぶつと郡司は何かを呟いているが、あずまは無視した。構っている暇はない。今こそと鬼札を取り出し、額に押しつけて打開を強く祈った。
空港で出会った時の辰郎のことを思うと、未だに涙鬼を真に救い出せていない自分が、あずまは許せなくてたまらなかった。
余計な苛立ちまで郡司にぶつけてしまった気もしたが、謝る気はなかった。
「入って……お願い……!」
隙間に鬼札を突っ込もうと手を震わせる。焦れば焦るほどに鬼札がくしゃりと折れ曲がりうまくいかない。
郡司は呟くのをやめていたが、代わりに大粒の涙がボロボロとこぼれ、足元に落ちる。それが真っ白に染まり薄く盛り上がった。
霜である。
涙鬼は右へ左へと打たれ、倒れ、痛みに悶える姿を舞前は楽しんでいた。
「辛いでしょ、日比谷くんが近くにいてさぁ。ものすごく心配されてるよねぇー」
涙鬼は踏ん張り、ふらふらと立ち上がる。顔は腫れ上がり、鼻からも唇からも、切れた左まぶたからも血が流れた。
それだのに、攻撃を受けていないはずの胸が締めつけられるように痛む。
あずまに心配されている。だったらこの男から逃げ回ればいいのだ。しかし、それもできなかった。こいつがあずまたちに何をするかわからないし、何より千堂家としての責任があるから。
大切な者を奪われた怒りと悲しみと憎しみ。黒い影を顔に貼りつけ見下ろしているこの男は、いつ爆発してもおかしくない感情をずっと押し殺しながら、少しずつ、少しずつ。ヒ素を盛るように恨みを垂れ流していたのである。
千年経とうが、千堂家はかつて犯した罪を忘れてはならない。天罰として呪いを受け入れなければならない。
これは一蓮托生というやつなのだろうか。千堂家として世に生まれ落ちたが最後、命運尽き果て八百万の神に見捨てられる。
どうして自分が、と涙鬼は皮のはがれた唇を噛む。左まぶたもあっという間に腫れて、視界が悪くなった。いくら治りが早いとはいえ、舞前はそれを許さない。
ガーゼをはがせばいいのかもしれない。しかし、鬼の目を使ってこの男を見ようものなら逆上するだろう。
しかし、このままではあずまは泣いてしまうだろう。かつてあずまから逃げたように逃げてしまえばいいのかもしれない。
しかし、逃げるということは罪に対する責務を放り出し、奪われた者たちの叫びから目をそらすということではないか。死んだ者たちの尊厳を冒涜するということではないのか。
板挟みになる気持ちに押し潰されそうになった涙鬼は息も絶え絶えになる。
「いいね、千堂家のくせに大切に思われて。そんな人の前で千堂くん、きみはダメな奴だね、こんなにゴミのように痛めつけられて。仮にも鬼殺しって呼ばれたとてもつよーい、つよぉーーーーい人・間・様、の血筋なのにね。みっともないったらありゃしないよッ!」
顔を歪ませる涙鬼に、満足げに舞前は何度も扱き下ろす。
「もしもきみが生まれた時の……“元の姿”に戻ったら、日比谷くんの見る目はどうなるんだろうね? それでも同情してくれると思う? 先生は悲鳴を上げて逃げる方に一票だよッ!」
竹刀を縦に振り下ろし、呆然とした涙鬼の頭を叩き落とした。涙鬼は脳裏に白い火花を散らせ、ぐらりと膝をつく。
竹刀が半分に割れてしまったので、舞前は柄を捨てた。
「謝れ。土下座して謝罪しろ。早く」
涙鬼はニット帽を取り、床にひれ伏した。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「もっと大きな声で言えッ!!!!!!!!」
「本当に申し訳ありませんでしたッ!!」
舞前は片足を大きく持ち上げ、頭を踏みつけた。床が血で汚れた。
「殺した数だけ呪いが続くんだって? じゃあ、山にいた家族や仲間の数だけ踏み潰してあげるよ」
また舞前は足を持ち上げた。
ところが、自身の首が横へグンと動き、足がもつれる。
「まだ抵抗する力があったのか! 往生際の悪い!」
今度は前のめり。その次はのけ反る。まるで涙鬼から引き離そうとするかのように首は胴体を引っ張る。
その時、眉間にほんの五ミリ程度の亀裂が生じた。
それと同時に、鬼札が倉庫から出た。
あずまは叫んだ。
「千堂くんを助けてッ! お願いしますッ!」
札に書かれた文字が渦を巻く。墨が外に吹き出すと札を包み込んで膨らみ、人の形を取った。
姿を現した人影に、血濡れたの顔の涙鬼は薄らと目を開けた。
「とう、さん……?」
重たい上体を起こし、父親をぼんやり見つめた。
辰郎は口を一文字に結び、逆鱗を触れられた龍の如く、前を見据えている。
瞳が鋭く光っていた。琥珀色の火花がちらちらとまたたいていた。
握りしめていた、赤みがかった竹刀を抜刀する前のように右側で構え、一歩、また一歩とじりじり進み、かっと突進した。
舞前は舌打ちし、爪から黒い流動体を出して天井の骨組みに巻きつかせ上昇した。
辰郎は高く跳躍したかと思うと水の龍に変貌し、舞前を丸飲みした。
激流の中、舞前はもがく。頭から尾へと流れ、落下した。龍は渦となり、中心から降りてきた辰郎が一気に間合いを詰める。
竹刀が唸る。
「めえええええええエンッ!」
辰郎は宙で強烈な一撃を額に食らわせた。辰郎の姿は黒く染まって雲散し、白紙になった札がひらりと落ちていく。
「おのれぇえええええええええええッ!!!!」
落下していく舞前の歪む顔全体に亀裂が入り、そこから一本の腕が突き破ってきた。
舞前の体は黒く覆われ球体になり、床に打ちつけられると水風船のように破裂して、腕の主だけが現れて転倒した。
黒い流動体はあらゆる隙間の中へと染み込み逃げていく。
「千堂くん!」
倉庫の戸を勢いよく開かせ、あずまは駆け寄った。
「この人は……」
げっそりとやつれた男は平たく細い上体をよろよろと起こす。弱々しく目を開けて涙鬼を見るなり抱き寄せた。
「ごめん……千堂くん……」
「舞前先生、なのか……?」
「今まで助けてあげられなくてごめんね……幅屋くんたちを止められなくてごめんね……ごめんね……ごめんね……」
かすれた声で途切れ途切れに謝罪を繰り返した。
舞前の顔はお多福ではなくなっていた。外に出るために内側から殴り続けていたのだろう。爪がはがれかけた赤黒い指はがたがたと曲がっていた。
「おのれ千堂家」
涙鬼はハッと振り返る。珠久遠寺がすぐそばで直立していた。彼女はまだお多福の顔をしていた。短くも割れて鋭利な凶器となった竹刀を、彼女は涙鬼の顔に目がけて振り下した。あずまは手を伸ばすが、間に合わなかった。
刺さったのは、郡司の手のひらだった。
「そんな危ないもの持つなよ、和子」
涙目で笑顔を歪ませながら、彼女の顔に口を近づけた。フッと優しく息を吹きかけると、一瞬にして彼女の顔が凍りついた。お多福の顔が砕け、珠久遠寺のぐしゃぐしゃな泣き顔が出てきた。
「ピアノが……ッ……弾けなくなっちゃう……!」
彼女は気を失い、倒れそうになったのを郡司は受け止めた。
「吉祥くん、手が……!」
竹刀の破片がいくつも突き刺さったまま。郡司は歪んだ笑顔をあずまと涙鬼に向けた。
「俺はもう神様になれない……。なれなくていいから……ふたりと友だちになりたい」
痛みに耐え、真白に凍った涙をまつ毛に浮かばせている彼にあずまは微笑み、血が伝っている指先をそっと握った。
「助けてくれふたりとも。先生も気を失っている」
涙鬼がくぐもった声で言った。舞前は彼にもたれかかったまま白目をむいていた。




