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千堂魃は許さない

「みなさんさよーなら」

「さよーならっ!」


 終わりの会が終わる。教室から解放される喜びなのか、この瞬間だけは一体感がある気がする。

 結束するには共通の敵がいると効果的だが、結束力は正義だけがもたらされるものではないことも、あずまは理解していた。


 クラスメイトたちにとっての共通の敵は誰なのか。涙鬼か、幅屋たちか、舞前か。


 幅屋の暴走により、涙鬼に同情する子は間違いなく増えた。

 今まで鼻つまみにしていた子も、今日は気の毒そうに遠巻きに見ていた。右目が気持ち悪いから嫌いだったとしても、幅屋の行動はその子にとってざまあみろと思える範囲を超えてしまったのだろう。


 仲良くする気はなくとも、あからさまな嫌悪を向ける子はほとんどいなくなった。あずまはそれが良い兆候とはあまり思えなかった。


 嫌悪感はすべて幅屋に向けられた。幅屋はそれを鋭く感じ取り、調子づいて浮かべていたいやらしい笑みを消し、怒りの矛先を涙鬼に集中させたのである。


 暴力に勢いが増した。幅屋はとにかく怒り狂っていた。興奮した牛のように鼻息は荒く、顔を真っ赤にし、目を大きく見開き、歯をむき出して威嚇していた。

 どう変貌してもただの人間で、凡の悪意だというのだから、もし人間でなかったらと思うとあずまはぞっとした。


 たとえ凡でも、見続けるのは心に毒である。結局、教室の出入りは頻繁にあっても誰かが救いの手を差し伸べに来ることはなかった。これもすべて舞前によるものなのか。


 まさか、魃が来てくれることもお見通しで、空振りに終わってしまうのではないか。

 あずまはどうしようもなく不安であり続けながら、無表情で下駄箱を確認している涙鬼にそっと声をかける。


「やっと終わったね」


 涙鬼は嘆息に近い返事をする。


「だいじょうぶ? 骨とか折れてたらどうしよう」

「俺たちは傷の治りが早いんだ」

「そうなの?」

「ただ俺の場合は目に呪いがあるから一番遠い足の怪我は治りが遅いんだ。まあふつうの奴らよりかは早いんだろうけど……父さんの遺伝もあるし」


 治るのがどんなに早かろうと、感じる痛みは同じであるはず。耐え抜いた彼に、あずまは寄り添ってあげたかった。


「ちゃんと歩ける?」

「お前は心配性だな」

「心配だよ! だって……本当に今日で終わる?」

「兄さんは有言実行するから。本当はそんなことしてほしくなかったんだ。怖がられるのは俺だし、いじめが終わったら教育センターに行かせてくれなくなるし」

「うん……」

「でももういいんだ。俺も残ることにした」


 愛想は相変わらずなかったが、諸々諦めたのかどこか吹っ切れた顔つきをしている。


「どうなるんだろうね」

「兄さんの加減次第」


 涙鬼は「帰る」と言って早歩き。魃と出くわしたら気まずいのだろう。


「うん、帰ろう」


 あずまは辰郎のように気の良さそうな彼がどのような説教をするのか想像できなかった。見てみたいような、見たくないような。

 加減次第だなんて、明日から幅屋たちがどんな態度で登校してくるのか、不安の中に少し違う色が混じる。


 特に幅屋が許せない。それでも嫌悪感を一斉に食らって落ち着きを完全に失った彼のことがあまり他人事に思えなかったのである。


 下駄箱をちらりと見てみれば、彼らはまだ学校のどこかにいるようだった。


 幅屋たちはどうしていたか。


 彼らは校舎裏で他のクラスの子から金を要求していた。

 誰なら金を持っているのか、高矢なら粗方に把握していた。公衆電話を利用していたり、放課後寄り道をしていたり、彼は目ざとかった。


 殊久遠寺が一番金持ちだと、かつて饗庭は提案したことがある。漫画一冊程度しか買えないような小銭をちまちま集めなくても、彼女に詰め寄ればいくらでももらえるはずだと。


 ところが高矢が言うには、家が金持ちでも彼女が所持しているのはテレホンカードだけ。しかも殊久遠寺家は成金ではなく、有望でなければ一円たりとも支援しないような泰京市有数の手堅い家柄。敵に回すと面倒らしい。


 大きな権力を敵に回すのは恐ろしい。だから饗庭は殊久遠寺へのいたずらはきっぱりやめた。高矢に胸倉を高くつかまれ釘を刺されるのはもうご免であった。


 目の前でガタガタと震えている男子児童はというと、権力とは無縁に見える。とはいえ、この怯えようは何だ。


 饗庭は幅屋に目をそばめる。幅屋はずっと肩を上下させていて、鼻息が聞こえてくる。

 昨日と今日ほど腰巾着でよかったと思えたその一方で、体は強張っていた。饗庭にとっての今一番の大きな権力はすぐ隣にいる。


 しかし敵に回すというのはこの場合、幅屋がどんどん敵に回していっているのではないか。一人一人は無力でも、束になってかかってこられてはマズいのではないのか。


「ほら早く出せぇや」


 高矢の催促に、男子児童は財布を取り出す。ためらいでなかなかチャックを開けられない。幅屋は苛立って財布を奪おうとした。


「やっぱりだめだよ! お母さんのお金なんだ!」


 命令に逆らえず盗んでしまったのだろう、男子児童も両手に力を入れて放さない。家のお金を持って来させる案は饗庭も殊久遠寺の件で悪びれず口にしていたものの、いざその状況を目の当たりにすると、とんでもない事件に巻き込まれているような気がしてならなかった。


 またしても幅屋は顔を真っ赤にして、白い息を噴出させながら腕を振り上げる。圧倒された饗庭は顎を引き、頬を上げて目を細めた。


「やめろ!」


 幅屋は寸前で止め、四人は声の方に顔を向けた。そこに学ランを着た男子がいた。


「なんで中学生が……」

「そこの被害者は帰っていいよ。さよーなら」


 魃は幅屋の言葉を無視して、青白い男子児童に向かって軽やかに声をかける。その子は財布を引っこ抜き、頭を下げてから逃げた。


 魃は笑っているようにも見える微妙な表情を作って頬にピースサインを作る。


「どうも、千堂涙鬼の兄、魃どぇーすン。ヨロピクぅ」

「まじ……」


 饗庭は兄のお出ましに及び腰になった。中学生が菜の花に来ていじめの件を聞いて回っていたという話を思い出したのである。さっきの子に便乗して逃げればよかったとたちまち後悔する。


 魃は距離を置いたまましゃべる。


「よくも飽きもしないでやるな? そんなに楽しいんか?」

「いちいち説教しに来たってか?」


 高矢のあおりに対して「そうだよ」と、面白がっているようだった。そんな反抗的な態度を取っていいのかと嘲り笑っている。


 涙鬼にも家族がいる。そんな当たり前なことを饗庭は今になって気がついた。味方はあずまだけではなかったのだ。

 けして敵に回してはならない人物。とうとうそいつに見つかってしまったのだと本能的に感じ取り、ずっとあった緊張感は胃が裏返しになるかというぐらいにまで上り詰めた。


「そうさ。俺もずっとこの両手に悩んでた。プールには入れないし、素手で好きな女子に触れない。掃除で雑巾を使う時はゴム手袋で、トイレだっていつも個室に入るから散々ウンコタレって言われた。まあそれがきっかけでうちのじじに運根鈍(うんこんどん)って言葉を教えてもらった訳だけど」

「ハァ? 何言ってんのバカじゃね? 行こうぜ」


 幅屋は嘲笑し、背を向けようとした時、魃はカッと目を見開いた。途端に幅屋たちは動けなくなった。


「逃げんなよ」


 低い声が二重にも三重にも腹に響いた。三人は大地が震えたような気がした。砂埃が舞い、ちりちりと細かい痛みが肌にもたらされた。


 パキリ。パキリ。と、硬いものが砕ける音が二度聞こえた。黒の革手袋の中で指の関節を鳴らしているのだ。

 魃は現れたその場所から一歩も動いていない。手袋もしているのに聞こえるのはありえない。彼の指を曲げる様は、冷たく震える魂を胸骨の隙間から容赦なくもぎり取る悪魔である。


 涙鬼が妖怪なら兄は悪魔。連想してしまった饗庭の胃は悪魔の手のひらでどんどん押し上げられていくようであった。


「昔は、涙鬼は素手でものを触れることができるし、トイレもいちいち個室に入らなくていいからうらやましかった。でもそれはくだらない、些細なことだったんだよなあ。あいつが自由に見ることのできる世界は半分でしかないからさ。それをさあ。その大事な世界の光をお前らみたいな馬鹿が消してるんだなあ」


 呑気な口調なのに声音は重く暗い。咎める視線は空気を圧迫させる。助けを乞おうと声を絞り出そうにも唇も舌もピリピリ痺れ、やがて感覚が失われた。

 膝や肘、関節は小刻みに震え、足の裏は縫いつけられたかのように地面に引っ付いていて離れない。


「人は外見で判断する。だがお前らは隠してある右目だけで評価し、左目を見ようとしない。笑いながら人間性を否定し、人権を奪い、より閉鎖的になって左目が死んでいくのを楽しく見ている。たとえばお前らがなかなか治らない大怪我をして包帯やら手当てを受けたとして、それを無理やり引っぺがされて“気持ちわりぃ”と笑われたらどう思う? その程度の想像もできないほど、お前らの頭のネジは吹っ飛んでんのか? だから馬鹿なんだなあ」


 魃は自身の側頭部を指さしてクルクルと小さく円を描く。途端に饗庭は足首に爪を立てて引っつかまれ、泥沼に引きずり込まれるような錯覚に陥った。しかし叫ぶことはできない。


 首にも爪を立て、親指で未発達の喉仏を押し上げられているような不快感に息ができなくなっていく。

 涙が出そうになった。しかしまばたきはできない。眼球は乾き切っていた。


「お前らは間違ったやり方でクラスを支配している。今まで何人学校から追い出した? 何人に嫌がらせをして泣かせた? 中には涙鬼のように泣くことすら許されず、家族にも言えずに我慢し続けている奴もいるはずだぜ。何もかも思い通りになって王様にでもなったつもりか? 知らない間に何倍もの敵を増やしていることになぜ気づかない? 裸の王様ってやつなんかなあ? 馬鹿だから気づかないんだなあ」


 穴が開くかというほどの強烈なまなざしに押し倒されそうになる。しかし倒れることはできない。視線を逸らすこともできない。幅屋と高矢はどうなっているのか考える余裕はなかった。体中から脂汗が吹き出し、顎から滴り落ちる。


 魃が一歩、また一歩と近づいてくる。耳鳴りがつんざく。それでも彼の声は鮮明だ。


「俺はあえてそいつらの代表になったつもりでお前らの前にいる。そいつらは仮にお前らが誠心誠意に一人ずつ土下座して謝ったところで許したりはしない。いつまでも心に傷を抱えて、中には末代まで復讐してやりたいと思っている奴もいるんじゃねえか。その時になって周りが助けてくれないことにひたすら後悔するんだな」


 ゆっくりと、両手が伸びてくる。


「俺もお前らを許さない。もし一日でも今までやらかした行いを忘れたら、恨むぜ」


 黒い、悪魔の手のひらがが顔に近づいてくる。触れられたら。


 もし、触れられたら。一巻の終わりだ――


 ――と、饗庭が泡を吹くかという頃合いに魃はにらみを解いた。幅屋たちは一斉に脱力してへたり込む。運動した後のように汗びっしょりで息切れする。


「へえっ、あひぃっあひぃっ……」


 饗庭は白目をむいて髪を振り乱し、舌に砂埃をまとわりつかせたまま涙とよだれを垂れ流した。


「なんなんだ、野郎……」


 渇いた声ながらもすぐ言葉を発せられた高矢が、立ち去ろうとする魃に敵対心をぶつけた。


 夕方間近の淡い日差しによる錯覚だろうか、魃の瞳が翡翠色に光ったように見えた。


「次はないと思えよガキクソ。じゃないと次は親父が来ちまうぜ」


 魃は校舎の陰に消え、たちまち曇り空で薄暗くなった。

もしかしたら次回の更新は遅くなるかもしれないし、いつも通りのペースかもしれません。

遅くなるとしても今年中には投稿できるようにがんばります。

がんばれなかったらすみません。

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