日比谷克義は不安しかない
一九九九年十月二一日、木曜日。
「具合はどうだ? 平気か?」
「あなたはどう見える?」
この問い返しでいつも日比谷克義を困らせた。む、とできた眉間のしわを隠すかのように、無意識に眼鏡のブリッジを中指で押してしまうと、妻のみさ子は可笑しそうに言う。
「平気よ、克義さん。とてもワクワクして、今にも飛び上がっちゃいそう」
「やめてくれ。飛ぶのは飛行機だけで十分だ」
冗談でもハラハラする。妻は体が弱く、いつ体調を崩すかわからない。水銀レバーを用いた爆弾が内蔵されているようなものだ。人は大袈裟だと苦笑を漏らすが、それだけ彼女は繊細な体をしている。だからこそ克義は通路側に座り、いつでもキャビンアテンダントを呼べるようにしている。
「もう泰京市で紅葉は始まってるかしら?」
「残暑が厳しいから、もう少し先だろう。暮浅緋は別かもしれないが」
「もう十年も経つのね」
克義は十年前を簡単に振り返った。
日比谷克義は二年弱、日本のIT企業で働いていた。社交性はあいかわらず乏しかったが、有望な新人で特許もよく取得していた。一秒でも長く妻と過ごしたいがために有休を取りまくっていたことも相まって先輩には目の敵にされた。
休んで何が悪い。誰よりも仕事はできるし、やっている。誰かがミスをしでかせばその都度に片手間とばかりに尻拭いするのは自分で、無論きれいに拭かせてもらっていた。誰よりも評価されてしかるべきであるし、といっても別に評価されたところで何らありがたみは感じない。私はみさ子に褒められたいのだ。
なんて、言ってもいいなら声を大にして彼は言ってやりたかった。
とにかく、理不尽極まりないパワーハラスメントに克義は嫌気が差していた。
そんな頃にニューヨークに拠点を置く企業アースセキュリティからヘッドハンティング。愛するみさ子のアメリカ暮らしがしてみたいという後押しに甘え、彼は申し出を受けた。飛行機の移動という懸念材料に注意を払う必要はあったものの……。
先輩が数字をいじって懐に金を作っていた件を調べつくしてあったので、退職後に全社内のパソコンに証拠資料を転送して告発した。そんなこともあって、その企業は克義からのサイバー攻撃を恐れ、彼の技術を使用する際は素直に金を支払い続けている。
仕事の成果が出るだけ金が生まれる。でも、どんなに金を医者や薬剤師、科学者の前に積んでも、妻の病弱さは治らない。美人薄命だ、神様に愛されただ、既に片足を天国の階段に乗せているだ、そんな薄情なことを頭によぎらせては自分で自分をビンタする。
安定しているこのひと時も、何らかの前触れとしか思えないほど、不安は色濃く胸にへばりついている。まるでヘドロだ。幸せを純粋に実感させることができない。心から幸せだと思って笑い、気を抜くことが人生転落へのフラグなのだと。
この心配性を面に出してはかえって彼女の心身に悪いとわかっていながら……。ジレンマなのだ。
「みんなに早く会いたい」
みさ子は外を覗いた。雲の下から海が鮮明に広がり、彼女の大きな瞳も海色に輝きだしたかのように見えた。
「病院に行って検査をするのが先決だ」
天使の如き白い肌も青くなってしまうのが怖い。
「お父さんたら、心配性ね」
みさ子は自分の肩に寄りかかりながら窓側で眠っている息子あずまの髪を指でとく。この子の存在はまさに奇跡といえるだろう。アメリカ移住よりも難しい、体外受精からの出産という選択をみさ子は心配性の夫に説得し、成功させた。
母親と同じ天然パーマで、父親と同じデザインの黒縁眼鏡をかけている。日焼けの知らない白い手足は細く青筋が浮かび上がっている。幸いにも虚弱体質は受け継いでないが、いかにも引きこもった生活をしている風だ。
手にはキャビンアテンダントから貰ったおもちゃの飛行機。今にも落としそうになっていたのをみさ子は手に取る。
「でもご存知? きっと空港に彼が待ってるわ」
「彼? ああなるほど……」
途端に克義は不満の色を前面に押し出す。
「なんだ、それは。聞いてないぞ」
「だって言ったらそんな顔になるんだもの。両頬が上に上がって目元が細くなる」
「僕は好きじゃないんだ、あいつは」
「あらどうして? 嘘言わないで、親友なんだから」
「十年も経てばそんな関係なんて変わるものさ」
克義はそっぽを向く。
「そんなこと言わないで。全然そんなことない。だって素直じゃないところなんか、克義さん出会った頃から変わらないんだから」
微笑み続けると、克義はまた眼鏡のブリッジを押し、目を閉じた。
「あとで起こすわね」
みさ子はそっと耳元で囁いた。
克義は妻と出会った時のことを振り返った。彼女のことを語るにはまず“あいつ”のことから語らなければならないのが癪である。
まず千堂辰郎とは高校の時に知り合った。中学生のツッパリ四人に絡まれているところ雄叫び上げながら猪突猛進してきたのが辰郎だった。彼は三人をあっさり片付け、あまりを克義が押さえ込んだ。
というのも、目の悪さに目付きも悪いことが災いして、学校や塾、図書館までの道のりで絡まれる頻度に辟易していた克義は護身術の教室にも通っていたのである。
ただのがり勉ではないことに興味を持ったらしく、辰郎は克義の後ろをついて回るようになった。克義としては勉強の邪魔にさえならなければ金魚の糞でいてもらっても結構だったし、実際に辰郎は勉強の妨げになるような真似はしていなかった。
しかし、片思いの“ミクちゃん”を守るためだとか何とかでケンカに明け暮れて、体が頑丈なことが取り柄だと自負していた割には日に日に生傷が絶えなくなっていった辰郎の様子に呆れて、克義は渋々と鉛筆を置かざるを得なかったのである。
ナースの脚を見たら興奮して浮気になるから嫌だとか、医者に聴診器を当てられたらドキドキして浮気になるから嫌だ、などというアホらしい言い訳を難しい顔してほざく男を無理やり病院に放り込むのを繰り返して。
何度目かのある日、参考書を読みながら辰郎を待っている時に。ふと、影を感じて顔を上げると、隣から参考書を覗き込んでいたのがみさ子だった……。




