千堂涙鬼は心配されたくない
悪夢の一日が終わった。
静かな涙鬼の背中をあずまはついていった。
涙鬼が下駄箱の中を注意深く見て、それからゆっくりと靴を履き替えると振り返った。
あずまも視線の先に顔を向けると、殊久遠寺のしかめ面が覗いていた。
「和子ちゃん……」
彼女は怖い顔で辺りを見回してから涙鬼に近づき、手を引っ張った。
「汚いゴミを押しつけてやるんだもん」
何かを強引に握らせるなり、逃げるように外へ飛び出していった。
涙鬼は呆気にとられながら手を開くと、サクランボ柄で未使用の絆創膏がくしゃくしゃに折れていた。
「六枚もいらないぞ」と呟く彼の手の甲のかさぶたはきれいさっぱりなくなっていた。
涙鬼は他にも何か言いたそうにしていたが、口にすることはなく歩き出した。
他に知られたらどうなるかわからない。気づかいは無用だって殊久遠寺に伝えてくれ――かつての涙鬼なら遠慮なく声に出していただろうに、あずまはより悲しくなった。
二人は沈黙のままバスに乗り込んだ。涙鬼は何も言わなかった。
重たい空気が流れた。
「ごめん……」
あずまはそれしか言えない自分が嫌になった。
あずまは考える。あの職員室で見た光景はなんだったのか。一刻も早く涙鬼を助けなければと焦ったあまりに見た幻だったのだろうか。
現実的に考えれば、頭がおかしくなったと言われても不思議ではない。カウンセリングを勧められてしまう案件だ。あずまは眉間のしわを揉む。
そう、現実的に考えなければならない。
仮に自分ではなく他の子が職員室に向かい、あの体験をしていたらどうなっていただろうか。
敵勢にたったひとり、奮い立っていた感情は削がれ、無力感を突きつけられるだろう。
そして先生側からしてみれば、気がつけば目の前に意気消沈とした生徒が立ち尽くしているである。
あれこそが、誰も先生に頼ろうとしない、頼れない要因であり、先生側に動きがない理由である。
あずまはそう結論づけた。
残る疑問は、舞前は何者なのか、それ一点である。
敵だということははっきりしている。涙鬼個人に牙をむいているが、それは先生と生徒という立場にあり、千堂家の中で一番身近な存在だからだろう。
千堂家は神に見放されている。千堂家は呪われている。千堂家を助けてはならない。
頭にじんじんチクチクと熱がこもる。あずまは熱を分散させようと膝に乗せているランドセルに額を打たせようとした。
「別にいい」
ふと、涙鬼が言った。なんのことだろうとあずまは一瞬思ったが、謝ったことだった。
「なんで……?」
「日比谷は俺のこと、悪くないって思ってるんだろ?」
「うん、悪くないよ」
「それでいい、別に」
「よくないよ」
「別に心配しなくていいから、そんな顔はやめろ」
涙鬼は無表情で言った。どんな顔なのかあずまは触ってみるも、眉間にしわがあることしかわからなかった。
バスが止まり、あずまは立ち上がる。
「また明日」
“そんな顔”を見たくない涙鬼のために、あずまは満面の笑みを作った。
あずまがバスを降りた。元気よく手を振る彼の姿が流れていくのを、涙鬼は窓に寄りかかりぼんやり見た。
振動で頭をぶつけ、手の中に意識が行く。
ずっと握りしめていた絆創膏。それぞれの裏側に何か鉛筆で書いてあることには気づいていた。
広げて確認してみると、汚い字で『ま』『け』『な』『い』『で』『ね』だった。
「おかえりなさい」
浅緋の鳥居だった柱に童小路が無表情でぽつんと寄りかかっていた。涙鬼は無視して通り過ぎる。
「あずまお兄ちゃんは?」
「おらん」
童小路はくしゃりと泣きそうな顔をして姿を消した。
涙鬼は母親に顔を見せず、友好的な緑の目を光らせ近寄ってきたAIBOも無視。ランドセルも背負ったまま道場で死んだように寝そべった。
またここに逆戻り。彼の姿に魃は溜め息混じりに言う。
「あずまと仲良くなれたはいいけど、いじめはやっぱり終わらないんだな?」
弟はピクリとも動かない。魃はしゃがみ、彼の前髪を避ける。虚ろな左目から涙が一筋流れていた。
「辛いんだろ? 心配されてんのが」
「……」
「俺、いじめてる奴らの名前知っちゃってるかんな?」
「……」
魃は表情に影を落とすと、髪から指を放し、きびすを返す。
「殴るなよ」
涙鬼は言った。
「説教するだけ。明日一日、辛抱してくれよな」
兄は通常通りの爽やかな口調で、夕食時も変わらず気のいい兄だった。
就寝前になると、涙鬼は縁側に腰かけてぼうっとした。
彼は今ガーゼをしていない。外出する予定さえなければ、入浴後は右目を外気に晒していた。今日に限っては服が汚れてしまったので、夕食前に素早く入浴を済ました。
庭の池には鯉がいる。時々波紋が広がり月を消す。一匹だけ金色の鯉がいて、その鱗が月の代わりに光る。それを右目が興味を示すのだった。
まだ寝ていなかった魁次郎が隣で正座をした。
「ふふふ、何を考えているのやらだ」
魁次郎が鯉を眺めて笑う。穏やかな祖父を、涙鬼は眉を八の字にして見上げる。
「あ、あずず、ま、が……が、お……俺のこと、悪くくない、言って……」
「そう」
「それれから、あ、まま、前髪、み、みが、伸ばせばいいいって」
「ははは」
「俺の右目、を、見ても、心配するだけ、だった。全然、怖がらなかった……」
「怖いなぁっていう気持ちより、大丈夫かなぁっていう気持ちの方が大きかったんだな」
涙鬼は脱力してうつむいた。月はおぼろかになり、辺りがふっと暗くなる。
「明日、兄さんが説教しに行くんだ。俺をいじめていた奴らに」
「魃も弟思いだからな」
「家を出ていくつもりだったって」
「ああ。呪いを解く方法を見つけるためにな」
後ろ向きの意味で家を出ていくつもりだったと思っていた涙鬼は驚いた。
「辰郎も魁も昔は呪いを解く方法を求めていた。ただ、特に魁は十年旅したが、どうにかできる方法は見つからなかったし、どうにかしてくれる人も現れなかった。もう一年探してみよう、あと一年粘ってみようって、呪いのせいで人生を無駄にしてほしくないと思っているんだよ。もちろん婆さんも」
さりげなく、チヨは室内の方で静かに話を聞いている。
魁とは魅来の妹で、涙鬼の叔母に当たる人物である。
父曰く、彼女は馬の足を持った女らしい。両足の裏に呪いを持ったがゆえの、足癖の強いじゃじゃ馬らしい。だがその一方で姉思いの優しい女であり、父が現れるまでは彼女が姉の学校生活を守ってきたらしい。
現在、叔母は異世界に住んでいるのだとか。長期間、異世界に身を投じたため、もうこちらの世界は窮屈で物足りないのだという。
それは姉の魅来をゆだねられる大前提のもと成り立っている生活な訳だが、もし彼女がこちらの世界に残っていたら、現状は変わっていたのだろうかと涙鬼はぼんやり考えた。
「じじ。本当に異世界なんてあるの?」
「あるともさ」
呪いだ、妖怪だ、非科学的な存在を不本意ながら受け入れている涙鬼でさえ、にわかに信じられなかった。
「昔に比べて妖怪が減ったのは、違う世界に引っ越したせいでもあるんだよ。昔は人間の世界と妖怪の世界の境目は曖昧だったのだけどね、今じゃ人間の方がはるかに多いから、これ以上自分の住処にはみ出してこないように、目に届かないように境界を作ったんだ。それにたくさんあるんだ、世界は。星の数だけ何層にも重なっているんだ」
まあ狸や狐の妖怪とかは人間に成りすまして世間に溶け込んでいるけどね、と祖父は冗談めかす。
「本当に、呪いを解く方法なんて……」
「さぁ、どうだろう」
あったとして。千年も呪いから解放されないのは、情報が秘匿にされているか妨害が甚だしい。だから、千堂家とは無縁の異世界に叔母は希望を持っていたのだろうか。
しかし、そこに引っ越した妖怪たちがいるとなれば、十年も無駄に過ごすのも無理はないだろう。妖怪の社会は広く、しつこい。
犠牲になった鬼たちをすべて弔うことが、呪いから解放される唯一の術なのである。その時まで、この呪いは治らない。自分に言い聞かせるように、あずまにはっきりと言ってやった。それでも涙鬼は心にむず痒さを覚えた。
「呪いがなかったら、あいつとだってもっと、お、おしゃ、べ、べり、したり……な、なな、仲良くなれる、とと、思う」
「呪いがあってもなくても、あの子は同じ目でお前さんを見てくれる」
「でも俺は、半分はちゃんと見えてるけど、半分は色がないから。おんなじ目で見たいけど見れない。呪いがなかったら、もっといい生活ができたのに」
「運命でしかないんだよ、孫や。お前さんなら五年もすれば今のような憂いも消えて、大事なものが見つかるさ」
「大事なもの……?」
祖父は変わらず仏のように穏やかな笑みだ。
「その端っこをつかんでいるんだよ。その手を離さないでしっかり手繰り寄せることさ」
魁次郎はゆっくりと諭すように言った。涙鬼は口を尖らせる。
「じじの言ってることたまによくわからん。すごく、おおざっぱに聞こえる」
「あっはっは」
祖父は膝を叩いて軽快に笑い、祖母の溜め息が聞こえた。
いきなり異世界の話題が出たことに違和感があった方に対するちょっとした言い訳なんですが、
現実世界でも「あの世」「この世」という観念があって、人間社会(世界)に対して妖怪社会(世界)があって、目に見えない世界はみんな異世界だろうから異世界に住んでたっていいじゃないかと思ってるからです(語彙力ゼロ)




