殊久遠寺和子は解決できない
殊久遠寺は「緊急だもん」と教員用トイレに駆け込む。
すっきりすると、誰もいないのをそっと確認してから廊下に飛び出た。
音楽室に戻る道中、幅屋たちの声が響いた。慌てて消火栓の陰に身を隠し、息をひそめる。
「くっそ。明日倍にしてぶん殴ってやる」
幅屋が頬をさすりながら言う。頬というよりも口の中が痛むのだろう。歯が口から噴き出たのを思い出し、殊久遠寺は笑いを堪えた。
殊久遠寺にとって幅屋はジャイアンみたいで嫌いだった。いや、劇場版ではヒーローになれる素質を持っているジャイアンに比べれば横暴でしかない幅屋はもっと駄目である。
アレは動く障害物である。アレには避けるという能がないのである。いるとわかっているはずなのに、どんとぶつかってきて謝りもしない。殊久遠寺は無視されるのは嫌だし、体格を理由にしているなら最悪の気分だった。
だから外見を理由にいじめられている涙鬼がすごく心配だ。
「まさかやり返してくるなんて。日比谷のせいかな?」と饗庭が言うので、珠久遠寺は「うんうん」とひとり頷く。
饗庭は幅屋以上に嫌いだった。饗庭もどちらかと言えば小柄だが、殊久遠寺に比べればそうでもない。自分よりもチビで弱そうな奴がいて、優越感にニタニタと笑ってくるのである。
四年生になってからは何もされなくなったが、それまでは下駄箱にミミズやら、ランドセルの中に蜂の死骸やら、最悪の気分だった。
だから同じように下駄箱などに嫌なものを入れられている涙鬼がものすごく心配だ。
「先にマザコン消す? ああいうタイプすぐ来なくなるぜ?」
高矢の言葉に珠久遠寺はギクリとなる。
「でもそれで妖怪ぶち切れたらどうする?」
饗庭はビビっていたが、幅屋は煮えたぎっていた。
「あの眼鏡はいつでも消せるやろ。俺はあのグロ妖怪をぶっ殺したい」
「そういやまだフルボッコやってなかったよな。顔右側やりまくっても元からぐちゃぐちゃだから案外ばれなくね?」
そういえば鍵閉めてない、みたいな軽い口調で言う高矢が、珠久遠寺は恐ろしかった。
高矢とは四年生になって初めて同じクラスになったが、今のところ特に害を受けたことはない。人殺しのような目でにらまれたことも、恫喝されたこともない。
饗庭とは逆で女子には何もする気はないらしく、一度ぶつかりそうになった時は「ああ、悪い」と無愛想ながらも彼の方から謝ってきたのである。
とはいえ、もし自分が男子だったらと想像すると、それこそジャイアンにコテンパンにぶちのめされるのび太のようになるだろう、と殊久遠寺は身震いしてしまう。
だから男子である涙鬼がとてつもなく心配だ。
彼女は抜き足差し足と音楽室に戻った。『夕日が背中を押してくる』の切なげなメロディーが教室にふんわりと広がっている。
「大変大変。幅屋たちが千堂くんをフルコンボにしようって言ってる」
郡司は言い間違いも指摘せずにピアノを弾き続けている。
「どうしよう、またひとり学校からいなくなっちゃうよ。ねぇ、郡司くんってば」
袖とサスペンダーをぐいぐい引っ張ると、郡司は手を止める。
「……困ったな」
浮かない顔で言う割には、口調は淡々としたものだった。
「そうだよぅ、千堂くんがいなくなったら次は日比谷くんだよ? かわいそうだよ。やっぱり舞前先生に言った方がいいよねぇ?」
「あいつは何もしないよ」
郡司は白い手の甲に青筋を浮かばせ、演奏を再開させる。
「あんなに優しそうな顔してるのに」
「あいつ幅屋の顔腫れてんのに無視したんだぜ?」
「虫歯だと思ったんだもん、きっと」
いじめの主犯とはいえ、自身が担当しているクラスの生徒を心配する素振りをまったく見せなかったのには殊久遠寺だって不信感を抱いている。
ずっと涙鬼に対するいじめを黙認し、助長させるような言葉を吐き続けていた舞前だ。直接的でなくとも幅屋側の人間だと彼女は見ていた。
それなのに舞前は幅屋の負傷を無視した。殊久遠寺は頭をひねるしかない。
「どっちにしても俺にはお多福のお面をかぶってるようにしか見えないよ」
「でもおたふくって女の人だよねぇ?」
「……」
「じゃあ他の先生に言おうよ。校長先生とか!」
ヘアゴムのサクランボをぽんぽん揺らしながらぴょんぴょん跳ねる珠久遠寺に対し、郡司は「そうだなぁ……」と歯切れが悪い。
「じゃあワコが今から言いに行く! きっと舞前先生にも注意してくれるよ!」
「おい!」
呼び止めも虚しく手は空を切る。殊久遠寺は元気いっぱいに音楽室を飛び出した。
「こ、れ、で、解決~! これで解決ぅ~!」
口ずさみながら階段を駆け上った。脚が長かったなら一段飛ばしで上っていただろう。
そうとも。
どうして最初からそうしなかったのだろう。最初から思いきって一番偉い人に話を持っていけば良かったのだ。
校長先生が駄目なら教育委員会に。それでも駄目なら新聞でも週刊誌でもラジオでもなんでもいい。菜の花小学校はいじめを認めていると世間に教えてやるのだ。そうすれば校長先生だって腰を上げるだろう。
珠久遠寺は急いで校長室へ目指した。もしかすると舞い上がっていたのかもしれない。
「ストップ!」
「わわわ」
突然、舞前がぬうっと視界に現れ、殊久遠寺はたたらを踏んだ。
「駄目だよ、廊下を走っちゃあーぁ」
「急いでたんだもん、です!」
一体この人はどこから出てきたのだろう? 横から? しかし横には壁と窓しかない。
後ろから回り込んだ? しかし足音は聞こえなかった。
「そんなに急いでどこへ行くのかな?」
「校長先生のところ!」
「校長先生に何の用?」
「えっとね、イ」
いじめ、と言いかけて飲み込んだ。
「“い”~?」
舞前はぐにゃりと首を横に曲げ、珠久遠寺は目を泳がせる。
「い……印鑑! 印鑑見たいんだもん! でっかい印鑑!」
「印鑑?」
「ワコ印鑑大好きなんだもん! 趣味なんだもん!」
「はは、面白い趣味だね、珠久遠寺さんはぁ」
「ね!」
「本当に、面白いね、口癖」
「そうですかぁ?」
「うん、何か言い訳したい時とかに出ちゃってるよねぇー? 違うかなー?」
珠久遠寺は半笑いで固まった。舞前は首を真横に曲げたまま、弓のように目を細めて笑っている。
舞前は手拍子を取る。
「あ、そうそう、そうそう。校長先生は出張でいないよ?」
「あ、そうなんですか? えっとどこに……?」
「少なくとも教育委員会じゃないよ。新聞社にもいないし。ラジオ局にもいない」
殊久遠寺は目を見開いた。「え、なんで」と言葉を震わせ、のけ反った。
「なんでって言われても困っちゃうなー。だから、印鑑は諦めなきゃね。早くお家帰って宿題しよう。それとももう郡司くんとやり終わった?」
舞前がじっと見下ろしてくる。顔に貼りついている影がどんどん暗く、垂れ落ちてくるように錯覚した殊久遠寺は、まぶたをひくひくとさせながら「ううん、ピアノ弾いてただけ」とか細い声をかろうじて出す。
「日が暮れるの早いんだから、暗くなる前に帰るんだよ? どこにも、道草せずにね」
「じゃあ……さよならっ」
珠久遠寺はきびすを返した。音楽室の前まで戻ってくると、どっと嫌な汗が出た。
戸がなかなか開かない。彼女は苛々して地団駄を踏むが、やがて自分が開けなきゃ開く訳がないと気がつくくらいまでの冷静さを取り戻すと、自分の頭の悪さに顔が熱くなった。
戸に手をかけると、総毛立った。
郡司は何も弾かず待っていた。
「チクった?」
穏やかな空気だった音楽室が、彼が演奏しないだけで冷え冷えとするものなのか。
「出張でいないって、舞前先生が」
「自分で確かめたか? いないって」
「ううん。だっていきなり現れるんだもん……」
思い出すと、足裏から脳天へとぶるり。
「ワコ帰る」
心が折れた珠久遠寺はしょぼくれたまま、ピアノの脚柱に添えていた緑色の薄汚れたランドセルを背負う。小さい体が余計に小さくなった。
「途中まで送るよ」
「いいよ別に、お迎え呼ぶもん。ピアノがんばって」
テレホンカードを取り出し、彼女はとぼとぼと退室した。




