郡司吉祥は警告に従うしかない
放課後の音楽室から『空がこんなに青いとは』のメロディーが聞こえる。ピアノを弾いているのは郡司だ。
遅すぎず早すぎずゆるやかに。時に小さく時に軽快に、散歩をしているイメージでテンポよく音を弾いていく。彼はこの曲が大好きだった。
珠久遠寺もピアノに両肘をつきながら鼻歌を歌う。
郡司吉祥は学校で練習をするのを一時期やめていた。「男のくせにピアノを弾くな」と幅屋に馬鹿にされたからである。男がピアノを弾かなかったら『エリーゼのために』も『幻想即興曲』もこの世に存在しなかったと反論したら、すかさず殴られてしまった。
言い返せないといつもそうやって黙らせる。幅屋は良くも悪くもわかりやすい。どうにか言葉巧みに誘導して墓穴を掘らせ、いじめから手を引かせることはできないものか。郡司はそんなことを考えたこともあった。
しかし、それをやめざるを得なかったのが高矢の行動である。顔面に目がけボールを投げつけられとっさに郡司は手で守った。手首から指先の血管が震えるような痛みに、本当の狙いは顔ではなかったということに嫌でも気づかされた。
高矢なら警察沙汰になっても不思議ではない。涙鬼も無視を決め込んで相手をしてくれない。郡司はふたりの“警告”に従うしかなかった。
以来ずっとおとなしくして、ほとぼりが冷めるのを待っていた。涙鬼が転校するか、幅屋たちが飽きて標的を変えるか。どちらにせよ終わり良ければすべて良しとは言えない。“郡司吉祥はいじめを見て見ぬふりをし続けた”という事実は永遠にくすぶり続けるだろう。
あずまが来てくれてからはようやく学校でも鍵盤に触れることができるようになった。音楽の先生にはスランプを脱したと言い訳した。借りた音楽室の鍵が冷たく感じた。
(あいつが身代わりになった)
千堂涙鬼は自分のために誰かが傷つくのを望んではいない。誰かが傷つけば彼の心にも傷を負う。二重にも三重にも。
郡司はあまり実感がなかったが、殊久遠寺曰くモテているらしい。心ない複数の女子が涙鬼に「千堂のせいで郡司が狙われたらどうすんの」と言い放っていたのを偶然聞いてしまって、彼女たちとは仲良くするまいと心に誓った。犠牲は少ないに越したことはないが、彼女たちはそういう意味で言った訳ではないのだろう。
彼女たちに比べ、殊久遠寺和子は変わっている。コンクールに向けて音楽室でひとり練習していたら、いつも戸の窓には彼女の目と鼻の穴が上下に見え隠れしていた。
ピアノを弾けなくなって音楽室から遠ざかっていたある日、殊久遠寺はふたりきりになれるのを見計らってこっそり近づいて袖を引っ張り、真面目な顔で囁いたのである。「おうち用のピアノ買ってあげようか?」
電子ピアノならあったので買ってもらわずに済んだのだが。そのうち彼女はやらかすのではないか。屋たちあるいは心ない女子たちのせいで危ない目に見舞われるのではないか。郡司は殊久遠寺が視界でうろちょろするのを注目するようになっていた。
彼女は彼女で距離を詰めてきて、そばで演奏を堪能している。
「ねえねえ、『気球にのってどこまでも』」
「オッケー」
朝のひと悶着を一時でも忘れたいのか、二曲目のリクエストである。
涙鬼もあずまもとうとう学校に戻らず、休み時間になるたびに校門まで行ったり来たりを繰り返していた殊久遠寺はだらんとピアノの親板に寄りかかっている。
「その前にトイレに行く」
「なんだそれ」
「ガマンはよくないんだもん。膀胱炎になっちゃうからー」
恥じらいを知らない彼女に郡司は苦笑した。
郡司のかつて抱いた不安はそれなりに的中していた。仲良くするようになってから、心ない女子たちは殊久遠寺に「郡司のことが好きなの?」と当人がいる前で言ったのだ。すると殊久遠寺は「うん! パトロンになりたい!」と満面の笑みで勢いよく答えた。
知らない単語を出されたこともあって周囲は圧倒されたというべきか、一応は好意の有無がはっきりとしている答えを提示された以上は「え、ふーん」と話を終わらせるしかなかった訳で。
ひとり郡司は突拍子もない提案の件もあって片思いされている訳ではないとわかった。恋して音楽室の前を貼りついていたのではなく、単純に演奏が聴きたかっただけ。演奏をしている姿を見たかっただけ。
演奏を楽しみにしてくれるのは嬉しい。応援してくれるのは好ましい。
つまりはふたりの気持ちは一致して友情関係が成立している。殊久遠寺も涙鬼のことをずっと気にかけていたようだし、あずまのことも心配している。
あずまの眼鏡を壊されて、殊久遠寺はあずまの腕を引っ張った。あれは彼の味方だと周囲に知らしめているのも同然な危険行為だった。だから郡司も慌てて後を追った。
(……そういえば)
たまに彼女は袖を引っ張ってくる。その理由は知っている。吉本新喜劇でもそういうネタをやっているからと、クラスメイトがわざと存在に気づかないふりをするからである。郡司はそんなことをしたことはないし、するつもりもないのだが。
郡司はふと演奏の手を止めて、あずまに対しては腕なんだなあと思った。




