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千堂涙鬼は信じてくれることが信じられない

 実際に存在するキャラクター名などをたまに出すのは、架空の土地である泰京市に住んでいるあずまたちを少しでもその時代に実在していたような雰囲気を出したいからです。

 この作品に限らず他でもこのやり方を取っているのですが、もしかしたらなぜ完全なる架空にせず実在するものを話に出すのかと気になる方もいるかもしれないので、そう言い訳させてください。

 あずまは涙鬼を支えながらフェンス下にあるコンクリートブロックまで誘導し座らせた。今更かなと思いながらもハンカチを差し出すと、くぐもった声で「いらない」とぐっしょりと濡れた袖で押し返されてしまう。


 あずまは自身の鼻水を拭うと彼の左側に座った。ズボンの左ポケットから覗いていたハンカチを引っこ抜くと、涙鬼はハッと戸惑いの目を向けた。


「自分のハンカチならどう?」


 ふう、と涙鬼は肩から大きく息を吐くとハンカチを握りしめる。自分の顔に押し当てながら「お前マジでなんなん?」と毒も吐いた。あずまは黙っていた。


 涙が渇き切るまでには時間がかかった。ちらりと、ハンカチをずらしてあずまの様子を見てみると、思わず「え」と小さな声を漏らしてしまう。


 一瞬、死んでいるのかと錯覚してしまった。目をぱっちりと開いて泣いたり笑ったりと表情が豊かに変わる日比谷あずまはそこにはなく、電源を切っているかのように瞳から暖かな光を消し、首を垂らしていた。眉もまぶたも少し下げ、地面を(さげす)んでいるように見えた。


「だいじょうぶ?」


 涙鬼の声に反応したあずまの表情に電源が入る。涙鬼は慌てて目元を隠し、かぴかぴになった肌をこすった。


 右目が、動揺している。

 あずまはお母さん似だと言っていたが、あれは半分嘘なのだ。顔立ちは母親に似ていても、顔つきは本来“かっちゃん”の方を受け継いでいる。だがそれだと印象は悪くなるということを、彼は経験から把握しているのだ。


 たぶん、泣き止むまで待たなければいけないから、力を抜いていただけ。心の中では何らかの悪口を吐いていたなどと、ありえない。涙鬼はそう強く思い込むことにした。今まで辛抱強く人懐こい笑みを浮かべていただけだなんて考えたくはなかった。


 一台の自動車が入ってくる音にふたりは顔を上げる。バックで駐車の最中、涙鬼は運転手と目が合った気がした。既に学校が始まっている時間帯にランドセルを背負った子が、それも片方は片目を血の色に染めてここにいるのに不審に思ったに違いない。あずまも同じことを考えたらしく、移動を提案した。


 泰京市の中央である中区から北西にある(みのり)区へと続く、風神川(ふうじんがわ)水系の髭川(ひげがわ)。その河川敷を下流沿いにのろのろとうつむいたまま歩いた。涙鬼にとっては人気(ひとけ)がなくていい何となくの道筋だったのだが、方角的に自分の家に向かっていることに気づいた。


 あずまは何も言わず歩く速度を合わせていた。それどころか、学校をさぼったことへの罪悪感を微塵にも抱いてなさそうな、さっぱりとした表情で秋空を見ていた。


 アール・デコ様式の親柱の腹部にあるレリーフが桁橋の下からでもはっきりと見える。「なんの動物だろう?」とあずまがぽつりとこぼしたのを聞き逃さなかった涙鬼は「狸」とぼそりと答えた。


「タヌキ?」


 あずまはちゃんと聞き取り、くぐり抜けた橋を振り返り立ち止まった。


「あ、でも裏はトラなんだね。何か意味があるの?」


 涙鬼の重かった足も地面に縫いつけられたように動かなくなる。彼は観念した。


「あれは……父さんの先祖だ」


 あずまは目を丸くしている。ずるずると歩いて橋の下まで戻り、ランドセルを椅子の代わりにした。あずまもそれを真似る。


 川のせせらぎが聞こえる。


 やがて、涙鬼は視線を落としたまま、右目の秘密を語ることにした。


「昔、千堂家は妖怪を退治する家系で、殿さまとか、みんな妖怪が消えることを喜んで、一族を崇めていたらしいんだ」

「うん」

「一族にとって鬼は絶対的な悪で、だから鬼の言うことも、その鬼のことをよく知る巫女さんとか、お坊さんとか、村長(むらおさ)の忠告も全然聞かなかった。だから祟られたんだ」

「鬼に?」

「違う、神様。鬼だって呼ばれていたそいつは、その土地の守り神で……(ばち)が当たったんだ」

「それがその呪いなの?」

「呪いを受けてから代々殺してきた鬼の姿で生まれてくるようになった。俺の中には“白獣鬼(はくじゅうき)”っていう白い鬼が眠ってる。どの鬼の姿で生まれてくるかは男の子か女の子かわかる時期にならないとわからないし、昔はよく出産で女の人が死んじゃったり、生まれてすぐ殺したりしたんだって。今はおなかの中にいる間に呪いをできるだけ一ヶ所に集めさせて人間の姿に戻すんだ。でもどこに呪いが集まるかはわからない。俺は右目だったし、兄さんは両手の甲だった」

「だから手袋をしてたんだね。……今まで殺してきた鬼って、つまり、全部生まれてこないと呪いは終わらないってこと……?」

「うん」


 上から車が往来する音が聞こえる。


「一体どれだけ残ってるかなんて知らない。一族はばらばらになって、恥とか子孫の不幸を考えて滅ぶ道を選んだのもいるってじじが言ってた。俺のところは呪いを受け止めて、鬼をちゃんと成仏させて、自然に呪いが消えてくために血を絶やさない方を選んだって。だから俺がいるんだ」

「ウーン……そんなことないと思うけどなあ」


 あずまの気の抜けた返事に、涙鬼は訝しげに見る。


「辰郎さんがいたから千堂くんはいるんだよ。もしもあの人が魅来さんを好きにならなかったらきみは生まれなかったし、僕とも出会わなかったよ。呪われていても好きになってくれる人がいるって、何よりもステキなことじゃない?」

「……変な奴」

「え?」

「お前は変な奴だ」


 涙鬼は横目でぶっきらぼうに言った。


「変? 僕、“変”だなんて言われたことないや。あとね、“嫌い”って言われたのもきみが初めてなんだ。えへへ」

「笑うな」


 あずまはご機嫌でずっとニコニコしている。何がそんなに嬉しいのか理解できない涙鬼は深く考えないようにして、ランドセルからサージカルテープを取り出す。


「眼帯じゃなくていいの?」

「余計目立つ。海賊みたいだし」

「じゃあ前髪伸ばしたら? 片方だけ。ここまで何も着けずに来れたんだから」

「鬼太郎になる」

「へ?」

「だから、鬼太郎になる」


 そう言いながらガーゼを右目に貼り直す。あずまはきょとんとしている。


「キタロー、って何?」

「知らないのか?」

「アハハッ!」

「だからなんで笑う?」

「だって今、“えぇっ!?”って顔したよ!」

「俺はそんな顔してない」

「えーそう?」

「去年までテレビでやってたんだぞ?」

「アニメ?」

「アニメ。父さんは漫画を持ってるぞ」

「ポケモンならアメリカでもやってたよ。みんな知ってるみたいだったから僕も見てたんだけど、おもしろいね」

「そうなのか?」

「カードも集めてたんだけど、今は一枚も持ってないんだよね。キタローって人の名前だよね? どんな人?」

「よい子の味方。人間でも妖怪でも」

「へぇー! スーパーヒーローなんだね? かっこいいね」

「……なぁ、本当に信じてるのか?」


 不意に涙鬼は言う。


「呪いの話? うん」

「絶対におかしい。ふつうは信じない」

「そう?」

「周りを見てたらそれくらいわかる。妖怪なんていないし、呪いなんてありえん」

「でも僕、童ちゃん見たよ?」

「わらべちゃん?」

「童小路。神様なんでしょ?」

「ああ、あいつか……」

「ほら、そうやって自然な反応するでしょう? 僕のお母さんもね、小さい頃に妖精を見たことがあるんだって! ベッドで寝ていたら、窓の外で妖精がタンポポの綿毛を持って飛んでっちゃったり、クモの糸で毛糸玉を作ってたんだって! お母さんは絶対にウソつかないし、千堂くんもウソつかないよ」


 こいつの常識は母親の周りで回っているらしい。


「俺はお前が嫌いだ」

「それはウソだよぉ」

「みろ、矛盾してるじゃないか」


 涙鬼は口をへの字にして下唇を突き出す。


「あ、でも辰郎さんの先祖が動物っていうのはちょっと信じられないかも」

「いや、動物じゃなくて妖怪だ」

「あ、なーんだ」

「なんだってなんだ。ふつうはそっちの方が信じられん」

「だって妖怪は人間に変身できるじゃない」


 やっぱりあずまは変な奴である。


「あ、待って! 千堂くんの先祖は妖怪を倒してたんでしょ? 辰郎さんの先祖はレリーフになるくらい有名な妖怪なんでしょ? わあ、辰郎さんってすっごくいい人なんだ! すごーい!」


 世紀の大発見したように目を輝かせるので、涙鬼は呆れて溜め息をつきながら貼ったテープをさすった。


 父親に博愛精神を持ち合わせていないことを知っている涙鬼は、あずまの言葉に対して肯定も否定もしない。


 辰郎が一般的に良い人の分類に入り、良い父親であることも涙鬼は認めている。あずまが気づいた通り、千堂家の先祖と琥将家の先祖は相容れず、何世代にも及ぶ溝があったのを辰郎は飛びこえたのである。それもこれも愛のために。


 その結果、一部の悪かった関係は良好になり、一部の良かった関係は悪化した。長年続いていた均衡に長年こじれることになる変化をもたらした。


 愛さえあればどんな苦難も乗り越えられるだの、愛が世界を救うだの、世間はきれいごとを好んでいるが、愛は消して万能ではないということを辰郎の人生が教えてくれる。

 良い人かもしれないが、すべてには責任を持てない男でもある。その腕に抱えられる量だけの優しさしかなく、選択でこぼれ落ちたものは拾えない男なのだ。


 幼いうちから旧家の歴史を聞かされ続けてきた涙鬼は、そんな父親が母親にのろけている姿を思い浮かべると、足元に転がっていた小石を拾って川に放り投げた。


「学校、どうしよっか?」

「知らん。俺は行かん」

「無断欠席になっちゃうね」

「だったらお前だけ戻ればいいだろ」


 今更何を言い出すのか、涙鬼は白い目をしながら選択を待っていると、あずまは「どうしよう」と川を眺めながら本気で悩み始めている。


「俺が“行くな”って言ったら、行かないのか……?」


 涙鬼は恐る恐ると言った。


「ううーん、そうだね!」


 屈託のない笑顔に涙鬼は面食らう。


「一緒なら怖くないよ。明日、吉祥くんや和子(わこ)ちゃんに今日の授業のこと聞けばいいし。でもこれからどうするの? このまま帰るの?」

「帰って母さんの内職の手伝いでもする。おばあさんは長唄でいないからばれないと思うし、じじなら黙っててくれると思う」

「僕も行ってもいい?」

「……うん」

「やった! イェーイ!」

「はしゃぐな」


 涙鬼はなんとなく“かっちゃん”の気持ちがわかったような気がした。

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