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千堂涙鬼は関係ない

 教室が見えてくると、何やら中の様子がおかしい。


「日比谷を足止めしろ。まだ中に入れるなよ」

「オケー」


 珠久遠寺が涙鬼の横をすり抜ける。郡司は掃除用具のロッカーから雑巾をごっそりと持ち出しているところだ。


 涙鬼はあずまの机を見た。墨汁がぶっかけられていて、椅子も床も真っ黒に浸されていた。周りには習字セットがばらまかれている。


「お前これ濡らして来い。早く! 誰か習字セット戻せ!」


 郡司は涙鬼と目が合うや二枚の雑巾を彼の胸に押しつけ、自身は残りで墨汁を吸い取り始めた。

 クラスメイトは郡司の素早い行動に驚いていた。涙鬼はたじろぐも駆け足で手洗い場に向かった。


 濡らした雑巾を郡司に渡すと、彼は素早く汚れを拭く。涙鬼はそれをただじっと見下ろすしかない。


「駄目だ、完全には落ちない」


 墨汁は木目に染み込み、机も椅子も黒っぽい。


「幅屋戻ってくる……!」

「急いでっ」


 見張ってくれていた女子たちが声をかけた。郡司は雑巾を真っ黒いままロッカーに放り込み、習字セットを片付けてくれた男子と共に手洗い場へ逃げた。


 饗庭があずまの席の変化にいち早く気づき、ちょこまかと席の周りを確認している。涙鬼は知らぬふりして自分の席に向かうと、幅屋が立ちはだかった。


「お前か?」

「なんの話だ」

「マザコンの机だよ」


 自白をしているようなものだと幅屋は気づいているのだろうか。いや、人目がある中で堂々と犯行に及んでいて、こいつらには隠す気がないのだろう。必要性を感じていないのだ。


「俺じゃない」

「じゃあ誰だよ、言えよ」


 またしてもこの教室だけ時が止まったかのように静まり返る。廊下から笑い声が響き、内履きが鳴っている。


「知らん」

「ああ?」

「俺は、知らない」

「しらばっくれてると」


 涙鬼の胸倉をつかむ幅屋。誰かが「うわっ」と小さい悲鳴を上げる。今にもちぎれんばかりに空気が張り詰める。


「俺は知らない!」


 涙鬼は噛みつくように幅屋の手首をつかみ、胸倉からはがす。その力強さに、幅屋は気圧される。


「俺と日比谷は赤の他人なんだ。俺のせいであいつに嫌がらせしてるなら、こっちはいい迷惑だ!」


 つかんだ手首を前へ押しやって放し、幅屋を仰け反らせた。幅屋は歯を食いしばって体勢を持ち直すと涙鬼の胸をどんと押してにらみつけた。


「そうかよ。じゃあお前とは関係なしに潰してもいいってことだよな。この、妖怪」


 涙鬼の頭の中は真っ白になった。


 幅屋は顔面右側をぶるんと左右、上下にと震わせた。首が右へと曲がっていき、連動するように上半身、下半身と傾いていく。近くの机にぶつかり、衝撃で椅子が倒れ、弾む。その間にも頬は真っ赤な手の形に腫れ上がり、口から虫歯がある奥歯が一本、こぼれ落ちていく。


 最後にドサリ、と。幅屋は床に転がった。


 これから流行っていくインフルエンザの予防の換気で開けてあった窓から十一月の風が吹き込んだ。日直が用意していた朝自習のプリントが皆の頭上で舞う。

 しかし、誰しもがふたりに気を取られていた。机で幅屋が見えなかった子は、雪片のように降ったプリントの中を仁王立ちしている涙鬼を呆然と見た。身震いをしてしまったのは寒さのせいなのか、はたして。


「お前は最低な人間だ」


 平手打ちでいとも簡単に倒れたそいつを冷ややかに見下ろす。クラスメイト全員がほんの二、三秒の出来事に息をのんだ。饗庭は青ざめ、高矢は目を細めた。


「千堂お前……」


 郡司は立ち尽くしていた。涙鬼は我に返り、彼の後ろにいたあずまと目が合う。ほんのり爪の跡が残っている頬を見て、涙鬼は二人を押しのけて廊下を駆けた。


「早く行け」


 郡司はあずまを押した。あずまは黙って追いかけた。


 珠久遠寺がそろそろと郡司に近づいて袖を引っ張る。


「何が起こったの……?」

「千堂が……初めて手を出した。でも、一発だけだった……」


 涙鬼は学校を飛び出した。一心不乱に走った。


 あずまも懸命に走った。

 道の突き当たりのコインパーキングにたどり着いた。息切れに胸をかきむしり、横腹を押さえながら辺りを見渡した。


 車と車の間でうずくまっている涙鬼を見つけた。


「千堂くん」


 ぴくりと肩が震える。


「なんでだよ……。なんなんだお前!」

「千堂くん」

「触るな!」


 頭を守るように回していた腕に触れようとしたあずまの手をはたき落とす。


「お前は何様だ? 神様か? なんで俺の前に出てきたんだ?」


 かっと目を見開いて凄まれ、詰め寄られ、萎縮するあずま。


「そんなに俺を助けたいのか?」

「だっていじめられて……!」


 涙鬼はガーゼを乱雑にはがした。あずまはびくりと肩を震わせた。


 涙鬼の右眼球は血の色に染まり、血管が細部まで浮き出ていた。周りの皮膚も真っ赤に爛れ、同じく血管が蚯蚓腫(みみずば)れのように浮き出ていた。胸を上下に荒く息をするたびに血管がどくどく波打つ様は第二の心臓がそこに埋め込まれているようだった。


 高ぶっている涙鬼の感情を感知して、その原因を見つけ出さんばかりにギョロ、ギョロとあずまを見据える左目に反して赤い眼球が不規則に動く。そして時折まっすぐあずまの方に向かってしまうと、いかに彼が驚愕に目を見開かせているのかを両目で見てしまうことになるのである。


 これで、近づいてこない。これでクラスのみんなは逃げたのだ。


 あの時の恐怖の目。

 記憶に残ってしまったことを恨んだ悪意の目。

 右目だけでなく存在そのものがグロテスクであるかのように不快感をあらわにした拒絶の目。


 きっとこいつも逃げるに違いない。そう思うと、全身の熱い血の巡りが冷めていくようだった。ついさっき好きだと言ってくれたのに、気持ち悪いと言われるのだ。


 全身の血が抜かれていくような気分である。涙鬼はズンと重くなった頭を垂らし、一歩、また一歩と力なく後退した。


「それ……どうしたの……?」


 ああ、聞きたくない。涙鬼は耳をふさぎたかったが、気だるさに腕が上がらなかった。


 あずまの“内履き”に目が留まった。顔を上げるとすぐ目の前に彼がいて、顔を真っ青にして唇を震わせていた。


「だって吉祥くん、失明だって言うから……! そんな風になってるなんて全然知らなかった! すごく腫れてるよ!?」

「へ? え……?」


 あずまはあたふたしている。予想外の反応に涙鬼は動揺し、口をわななかせる。


 こんなはずはない。本来なら気持ち悪がり、怖がるはず。こんなに気持ち悪いのに。こんなにグロテスクなのにこんな反応するはずがない。


 思い返してみてほしい。転校初日にあの幅屋が“ぐちゃぐちゃしている”とはっきり伝えていたではないか。郡司の言ったことは信じておきながら、そっちは真に受けていなかったとでも言うのか。


 あずまはこともあろうか、その赤い皮膚に触れようとした。


「すぐ病院に」

「うるさい!」


 今までになく声を張り上げ、あずまを怯ませた。


「これは病気でも怪我でもないんだッ! 兄さんも母さんもじじもおばさんもみんなコレがある! 死ぬまで治らないんだよッ! お前なんかに治せるもんかッ!」


 あずまは「治らない……?」と力なく言った。


「本当に……? 絶対に……?」

「俺たちは千年も前から呪われてるんだ! これからもずっとだッ!」

「じゃあ関係ないじゃないか」


 涙鬼の左目が震えだす。

 いつも笑いかけてくれたくせに、今度は何だというのか。


「だって千年も昔なら、千堂くんは関係ないじゃないか。何も悪いことしてないでしょ」


 いつものように笑えばいいのに、今に限って何だというのか。なんて勝手な奴なのだろう。


「なんで先に泣くんだ」

「だって」


 あずまは涙をにじませていた。


「怖いから泣くんだろ? そうだって言え」

「違うよ」

「ちくしょう、なんだよッ! 俺はずっと我慢してきてッ! まだ一度も泣いてないのに先に泣くなよッ!」

「わかりました」


 あずまはこらえる。涙の代わりに鼻水が垂れてくる。


 そんな間抜け面に、涙鬼は余計に悔しくなった。あずまの間抜け顔がぼんやりしてきた。自分の左目から涙が湧き出していることに気づくのには時間はかからなかった。


「日比谷のくせに!」


 袖で涙を拭うが止まらなかった。


「俺のことなんにも知らないくせにッ!」

「僕もひとりだったから、ひとりが寂しいってことは知ってるんだ」

「嘘つくな。お前みたいな奴がひとりなはずないだろ」

「うん、ひとりじゃないね」


 左手をぎゅっと握られ、涙鬼は嗚咽を漏らした。泣き叫ぶなんてことはしなかった。もしかするとまだ、心のどこかでみっともない真似はしたくないと思っていたのだろうか。

 あずまにしか聞かれないように、静かにむせび泣いた。

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