日比谷あずまは絶対に友だちにならないといけない2
あずまは昼休みになると早歩きで教室を出ていく高矢の前に回り込む。
「メガネ返して。約束だよ?」
あずまは高矢の肩峰に容赦なく弾かれてよろめく。腕を押さえ目を白黒させると、痛烈な視線と一瞬交わる。
涙鬼よりも鋭く冷え切った双眸にたじろぐ。それでも諦めずついていくと、高矢が男子トイレに入っていくのを見た。
そこには幅屋も饗庭もいた。高矢は二人の背後で笑みを浮かべていた。饗庭が水道の蛇口をひねり、幅屋がホースを構えてあずまの顔に水を放射させた。
三人は爆笑した。あずまは咳き込み、鼻の痛みに涙目になり、鼻水を二本垂らしながら何が起こったのか考える。
「うわ、きったねぇ!」
幅屋がゲラゲラと笑う。
「ほら、返す」
高矢は眼鏡を二回に分けてあずまの腹部に放り投げた。真っ二つになって帰ってきた眼鏡に、あずまは愕然と見下ろした。
「お母さんが選んでくれたのに」
「出たマザコン!」
「気持ち悪いんだよ」
三人に詰め寄られ、あずまは後ずさりした。
郡司は幅屋たちがトイレから出るのを階段から見上げて確認し、さりげなく中に入った。
「誰かいませんかーっ!」
奥の洋式からだ。つっかえ棒になっていたデッキブラシを退かして戸を開けば、ホースで上半身を縛られたあずまがいた。
「吉祥くん」
「ちょっと待ってろ」
「ありがとう……!」
郡司はホースを解き、一度教室に戻った。幅屋たちはいなかった。
「体操服持ってきたから、中で着替えろ」
彼は体操着を渡すと、小さな溜め息をつき呆れ顔で入り口を振り返る。
クラスメイトの珠久遠寺。低学年にしか見えない小ぢんまりした女子の顔が半分、じっとこちらを見ている。
「おい、男子トイレなんだぞ」
「気になるもん……。こうやって誰も入ってこないように見張ってるんだもん……」
彼女はさらに背を縮ませて真剣に覗き続ける。
「見張るなら外を見ろって、外を。“家政婦は見た”じゃねぇんだから」
郡司は個室の中のあずまに声をかける。
「なぁ、これからずっとこんなのが続くんだぜ?」
「うん、千堂くんがそうだから。僕はね、妖怪とじゃなくて千堂くんと仲良くなりたいんだ」
郡司は眉をひそめる。あずまは背景を知っていて意識的にそう言っている訳ではない。純粋に出てくる言葉なのだろう。
「なんでそこまで気にかけるんだよ。無視ならいくらでもできるのに」
「……僕の友だち、パソコンの中にしかいなかったんだ」
あずまはぽつりと言った。
「掲示板?」
「ううん、人工知能。僕の周りにはそのコと大人しかいなくて、学校のみんなからは“ナード”って呼ばれてた。大人は僕の言うことわかってくれるし、あのコと話している方が楽しかったから平気だった。だけどあのコが壊れるとね、何にもなくなっちゃった。だからナードを卒業して友だちを作ろうと思ったんだけど、作り方がわからなくて。でもとにかくみんなのところにいればいいって思ったからそうしてたんだけど、そしたらグループっていうのがあって……。友だち作りって大変だね」
最後はおどけているような言い方。結果どうなったのか郡司は簡単に予想できた。誰彼無しに笑いかけ仲良くなろうとしたため、コウモリのように孤独になったのだろう。
「泣くなよ。今泣きたいのは千堂の方なんだから。日比谷にはもう友だちいるんだからさ」
「うん」
個室の中のあずまは強く鼻から息を吸って唇を震わせ、大粒の涙をこらえた。
「ワコも友だちになったげる」
珠久遠寺がつま先立ちになって言った。かかとを落とすと側頭部のヘアゴムの大きなサクランボがポヨンと上下に揺れた。
あずまが体操着で教室に現れたことに、クラスメイトは何も言わなかった。
郡司が体操着袋を持っていくのを目撃した子はいる。郡司はけしてみんなの人気者という訳ではないが、おおよそ誰に対しても友好的で誰しもが好感の持てる男子であるため、そんな彼までも被害者にするという考えに至ることはなかった。
もちろん単純に幅屋に委縮して言葉にできなかった、なんてこともあるだろう。
チャイムが鳴ってから現れた高矢は眼鏡を壊したことで一時的にも溜飲が下がったのか、一瞥しただけにとどまった。
しかし幅屋だけは虫の居所が悪く、誰がトイレの個室から出したのか、大声ではっきりさせようとした。直接あずまに聞こうとはせず、教室全体に威圧させて。
「お前か妖怪」
「そんなわけないだろ」
涙鬼のつんけんとした言い様に幅屋は胸倉をつかみ、あずまはハッと息を吸う。
「千堂くんじゃないよ!」
幅屋はにやりとした。
「じゃあ、誰だ言ってみろよ」
ここで郡司の方に目をやれば気づかれてしまう。あずまはのしのしと近づく幅屋を見据えた。
「ほら、言えよ」
「僕の知らない人だったよ」
「他のクラスの奴か?」
「だってトイレだよ。誰が来ても不思議じゃないよね」
舞前が教室に入ってくると、幅屋は無言で席に着いた。あずまはホッとする。
「あれれー? 日比谷くん、五限目は体育じゃないよ? お馬鹿さんだなあ」
舞前が細い目を光らせて陽気に笑うので、あずまは本当のことを伝えるべく口を開かせる。
「先生、僕」
「はーい、それじゃあみんな社会の授業を始めるよぉ。体育じゃないからねぇ」
舞前の明るい声に遮られ、あずまはタイミングを失った。
放課後になると、あずまは殊久遠寺に腕を引っ張られた。前にもこんなことがあったような気がすると、あずまは記憶を巡らせ童小路のことを思い出した。
「お前どこつれてくんだよ」
「ここ!」
一緒に来た郡司の問いかけに、彼女はあずまから手を離すと図工室の前でぴょんと体を大の字に開いて立ち止まった。
「メガネ直すの」
珠久遠寺はあちこちと用具をあさる。
「あった、接着剤」
「それ木工用だぜ?」
「接着剤があったと言っただけだもん。これを使うんじゃないもん……」
郡司の指摘に、梅干を食べたかのように口をすぼめる。
「あった、はい!」
プラスチック用を見つけ出し、壊れた眼鏡を出すようあずまに手で催促する。
「新しく買った方がいいような気がするんだけど」
「ううん、お父さんもお母さんも心配しちゃうから」
二人の男子を背に、珠久遠寺は木のテーブルの上に材料を置きながら「五万円は安い買い物じゃないしね」とポツリ。
「五万ってマジ?」
ギョッとする郡司。
「だってメガネでしょ?」
そう答える殊久遠寺の接着剤を持つ手は震えている。
「お前大丈夫か……?」
「プラモデル大好きだもん」
接着剤を眼鏡の半分の割れている面に微量を付け、もう半分を片手に持つ。ブルブルと両手が震えている。
「一発勝負だぞ、わかってるか……?」
「もん……」
一ミリずつ、眼鏡同士も顔面も近づけていく。目が真ん中に寄っている。
「ちぇすと!」
彼女はズレもなく見事に接合させた。
「乾いたら、はみ出た接着剤を削って、完成!」
「ありがとう! とっても器用だね!」
珠久遠寺は得意げに鼻腔を膨らませる。喜ぶあずまを尻目に、郡司は廊下の方を意識した。
死角で見えないが確かにいる。
郡司は口元をほころばせた。
「もし千堂くんのいじめがなくなったら、二人とも友だちになってよ」
「ああ。リベンジするよ」
「なるなる。あっ、見て見て。こんなに振っても取れないよ」
眼鏡を振り回す珠久遠寺。
「おいっ、高いんだぞ」
「一度割れたから割引だもん」
「何うまいこと言ったみたいな顔してんだよ」
二人のやり取りに、あずまは吹き出した。
彼の笑い声を涙鬼は廊下で聞いている。彼はうつむき、死んだように暗い目を見開かせている。
涙鬼は肩をすぼめ、静かにその場を去った。