千堂涙鬼はフタリの間に入り込めない2
久しぶりに投稿できた。
間がかなり開くのが怖くてなんか突貫工事みたいな感じだけど、どうにか少しゴールに向かってる。
突風に思わず目をつむった。静寂が訪れる。
「千堂くん」
呼ばれて、そっと目を開ける。またしても光景に変化が訪れた。有り体に言えば鏡の迷路だった。ヒーリングミュージックが流れている。
「余計に迷ってない?」
山城が言う。疲労も溜まっているのだろう。棘を含ませた声音が気になった涙鬼は眉をひそめる。出会った当初こそ人見知りをして遠慮がちだったのが、時間が経つにつれて慣れてきたのか。明子の連れということもあって、山城もまた猫を被っていたのかもしれない。そう思い至った。
「だいじょうぶだよ、恵美奈ちゃん。ほら、聞こえてこない?」
あずまは耳を澄ませている。遠くの方からかすかに歓声が聞こえる。しかし、鏡の中の白獣鬼はあずまが向いている方角とは真逆に指を差している。
ガーゼは、ずっと右目についている。鬼の右目は視界を閉ざされている以上、あれは人間の左目が見ている、マボロシなのだ。
ふと、涙鬼は考える。もし右目だけで周りを見たらどうなるのだろうか。ただ赤くなるだけなのだろうか。
(右目を開けろ)
ガーゼに手を触れる。
「バケモノだって山城が怯えちゃうよ」
背後から女学生が警告する。
「怖がらせちゃだめだよって、言われちゃうかもね」
あずまに呆れられるかもしれない。それだけはイヤだ。
「きっともうすぐだよ! がんばろ!」
喜色満面のあずまに励まされ、おとなしくついていく。
どんどん歓声が大きくなってくる。「出口だ!」とあずまが叫んだ。歓声の正体は、ジェットコースター“HOKUSAI”の乗客であった。
「おせーよ! 妖怪!」
幅屋たちは既に鏡の迷宮から脱して待ちぼうけだった。
「全員そろいましたね。それぞれお家まで送ります」
釜成が言う。
「あなたは、どこまで送ればよろしいですか?」
冷徹な物言いに涙鬼はやや困惑する。このメンバーの中で最も家が遠く、ややこしい位置にある。リムジンで送るには面倒だ。それを遠回しに指摘しているのだろうか。そもそも釜成は四家の人間で、千堂家とは対極にあるといって過言ではない。いくら明子とイトコの関係にあるとはいえ、あからさまな待遇は避けたいのだろう。
「今日は僕の家に泊まればいいよ。涙鬼くんはまだ僕のお父さんとお母さんに会ったことないでしょ? 紹介させてよ」
あずまが人懐っこい笑みで気を使ってきた。たしかに“かっちゃん”は学生時代の写真でしか見たことないし、母親の方は声しか知らない。だからちょっとした不公平を感じているのだろう。涙鬼は人様の家に泊まるのはおろか、足を踏み入れたことがない。明子からすら、冗談でも招待されたことがない。顔にはけして出すまいが、涙鬼は心が浮つくのを覚えた。
「へいへい、あずまっち。いいのかね」
明子が腕を組んで首をかしげた。
「俺様の情報が正しければ、あずまっちのママは入院しているのではないのかね?」
「そうなのか……?」
涙鬼の浮ついていた心がたちまち重く沈んだ。どうして教えてくれなかったのか。なぜ明子は知っているのか。明子の口からではなく、あずまから直接教えてもらいたかった。
「あずまさん。念のため、あなたは自宅に帰らない方が良いかもしれません。父親には私が説明します」
釜成が言った。在郷という老人がまたいつ現れるかわからないのだ。
「じゃあ、あたしの家に泊まれば?」
「え、だいじょうぶ?」
「だって、オトナのいざこざに巻き込まれないためにあたしと許婚になったんでしょ? さすがに家まで押しかけてくるのナイと思うけど」
山城の気安い提案に、あずまは「それもそうだね」とうなずいた。
「ごめん、涙鬼くん。僕、恵美奈ちゃんのお家に泊まることになったから、また今度ね」
遠慮がちに眉根を下げて上目づかいをされては、涙鬼も怒れなかった。
(俺だって)
涙鬼はそっと下唇の裏を噛む。危ないなら自分の家に泊まればいいと言えればよかった。だが釜成を前にして言い出せなかった。在郷以外の余計な敵が千堂家に近寄ってこない保証はないのだ。定丸にしてやられていたのはつい去年のことだし、あずまも巻き込んでしまったのだ。そのことも釜成は把握しているかもしれないと考えると、尚更に声を上げられなかった。
「ドンマイ」
高矢が馴れ馴れしく肩をポンと叩く。
「ザンネンやったなぁ。妖怪はおとなしく山へ帰れ」
今度は幅屋がいやらしい笑顔をしながら反対の肩を強く手のひらで叩き、涙鬼はぐらりと後退した。饗庭が「かーえーれ。かーえーれ」と手を叩いて笑った。
「ダメだよ、饗庭くん。幅屋くんも。涙鬼くんが嫌がってるでしょ」
あずまがむくれて咎めると、幅屋は「へーい」と叩いた肩をいやらしい手つきでなでたかと思えば背中を小突く。骨に当たってゴリと鈍い音がした。「澄ました顔してんじゃねーよ、妖怪」と耳打ちされ、涙鬼は声を押し殺した。
帰りのリムジンでもゲームをした。といっても、ひたすら明子と幅屋と高矢が目を吊り上げてコントローラーを取り合っていた。饗庭はゲラゲラ笑っていた。困った顔をしたあずまが収めようと躍起になっていた。それは覚えていた。どういう順番で家まで送り届けてくれたのか。少なくとも明子は最後のはずだ。涙鬼はどこに降ろされたのかおぼろげだった。菜の花小学校前だったのかもしれない。
「おはよう。涙鬼くん」
下駄箱の前であずまが挨拶した。
「……山城の家から学校に来たのか?」
「うん。近くまで車で送ってもらったんだ。これからも送り迎えしてくれるって」
「……ずっと、泊まるのか?」
「そう!」
喜色満面で答えるあずまに、涙鬼は反応に困った。
「じ……女子の、家だぞ」
「あはは。だって、もしかしたら将来本当に結婚するかもしれないんだよ。今のうちに慣れておかないと」
「そ、れはまだわからない、だろ。あと、それに。誰か、ば、バカにするかもしれない」
「そうだね。でも恵美奈ちゃんとはこれからも仲良くしていきたいんだ。だって僕のせいで僕と許婚になっちゃったんだから」
ただでさえ母親が入院しているのに。あずまの心境はどうなっているのか、涙鬼は計り知れなかった。
「ねえ。よかったら涙鬼くんもあの子と友だちになってほしいんだ。きっとそのつもりでアッキーはこのまえ涙鬼くんも誘ったんだよ」
「そ、れは……」
「本当に結婚するってなったら、そのときはみんなでお祝いしてほしいな」
「……いや、だ」
「えー、どーして?」
「そんな何年も先のことなんかわからないだろ」
涙鬼は顔をしかめて一足先に教室に向かった。「待ってよー」と背後から聞こえたが知らんぷりして歩みを速めた。
いつまで階段をのぼればよかっただろうか。唐突に段がグニャリとやわらかくなって足が持っていかれる――そんな妄想がよぎる。ちゃんと足を踏みしめて階段をのぼっているのに。
自分のクラスは何組だったか、席はどこだったか。ここ数日やけに頭がぼんやりする。特に右側前頭部に鈍い痛みがある。右まぶたが痙攣している。
二階の踊り場の窓からの強い日差しを背中で浴びる。
『世代を超えても千堂家は愚かだ』
『だからこそ慈悲の子から目をかけられているのだろう』
『可哀想だと思われているということか』
『そうだとしたら、それはもはや慈悲とはいえないだろう』
『やはり泰天家の末裔には慈悲が残されていないか』
鳥の影が階段から羽ばたいた。カラスの鳴き声がうるさい。頭蓋骨の中で響いているかのように頭痛がする。
教室に入ると、注目される。クラスの中心の机の上に座っている幅屋が振り向く。
「よお。妖怪が何しに来たんだ?」
高矢は隣の机に座り、椅子を足場にしている。「勉強だろ」と嘲りながら、サバイバルナイフの刃を引き出したり押し込んだりを繰り返す。
「べんきょう? へーぇ! 妖怪が俺たち人間と同じことをわざわざ勉強すんのかよ。俺たち人間とおんなじ、脳みそが頭ン中に詰まってんのかよ!」
ゲラゲラ笑う幅屋が醜い。
「オラ。とっとと自分の席に座れよ」
椅子がない机が最後列の中央にある。ひそひそ声がする。机の引き出しから緑色のスライムがあふれ出て床に滴る。饗庭がお腹を押させてヒイヒイ引きつり笑いをする。うるさい。
「何を騒いでいる。みな席につけ」
崇城が竹ものさしで教壇を鳴らした。
「今日は転校生がふたりだ」
教室がざわつく。「おい騒ぐな」と崇城が戒める。
転校生は二人とも女子だった。一人目は百寺シオ。髪は二本の三つ編みで、ぼんやりとした表情で薄ら笑みを浮かべている。二人目が茶髪に染めた山城だった。
「――山城は、日比谷の隣だ」
「元いた子は誰かさんのせいでちょうど来なくなったもんね!」
いきなり戸上がわざとらしく声を大にした。「黙れブス!」と幅屋が怒鳴る。山城は「ラッキーだったね」と上機嫌で、涙鬼の前席に座った。
「冷ややっこが食べたいわね」
右隣から声がした。振り向くと百寺がこちらを見つめていた。
「キムチを乗せて、ゴマ油と、お醤油をかけるのよ」
「ぶつぶつ言ってないで、着席してくれ」
百寺は口を閉ざして椅子をゆっくりと引く。崇城に注意されたから、というよりも言いたいことを言い終えたから座ったように見えた。
そして涙鬼は、椅子がないのでずっと起立していた。
あずまが山城とノートの見せ合いをしている。授業のことではなさそうだ。何かとりとめのないことをメモ書きして、声もなく会話をしている。山城の肩が震えている。あずまはクスクス笑っている。
「ゴマ油をかけると、キムチは辛くなくなるのよ」
「百寺。授業と関係ないことをしゃべるな」
またしても崇城に注意を受けた百寺は口を閉ざす。ノートに書かれていたのは献立だった。
「千堂。百寺から話しかけられても無視しろ。いいな」
崇城はイラついている。コツ、コツ……と、竹ものさしの音がリズムを刻んだ。
百寺は何をするにも鈍かった。移動教室のときは必ず遅刻をして、必要な教材を持ってこない。体育の授業ではトロクサさが顕著に表れた。まず走ろうという意思を見せない。説明を聞いているようで聞いていない。叱っても行動を正さない。ずっと何かに意識を取られながら、トロトロと集団についていく。なんか人がいっぱいいるから自分もそこに行ってみよう、という具合に。「石焼き芋。まだあるかしら」という独り言には、涙鬼も戦慄した。
初めのころは戸上が率先して面倒を見ていた気がする。あずまも協力しようとしたが、山城が「戸上さんが責任もってガンバってるんだし、ヘタに手を出さない方がいいよ」と言って抑止した。だが戸上は改善できずに音を上げてしまったらしい。
幅屋はグッドアイデアが浮かんだとばかりに教壇に立って命令する。
「おい妖怪。百寺のとなりなんやからお前が世話してやれよ。もしかしたらお前となら言葉が通じるかもしれないぜ。通じたらそいつも妖怪決定だけどな」
涙鬼はあずまに目を向けた。
「日比谷には山城がいンだから。ジャマすんじゃねーよ」
高矢が先手で牽制すると、あずまは苦笑いを浮かべた。照れているようにも見えた。
山城が、あずまの手を取る。遊園地に行ったときはあんなに赤面してためらっていたのに、慣れた調子で手を絡めている。山城は片方の口角を吊り上げた。見せつけているのだ。これがこの女子の本性なのだ。涙鬼は呼吸が浅くなった。
あずまが言う。
「百寺さんをお願い。守ってあげて」
山城が言う。
「あずまの友だちだもんね。きっと守ってくれるよ」
涙鬼は下唇の裏の薄皮を噛んだ。そして当事者の百寺は、自由帳にサツマイモの絵を描いていた。