千堂涙鬼は状況を飲み込めない2
意識が引き上げられる感覚であった。つい昼寝を長引かせてボーッとしていたのがようやくまともな思考を働かせられるようになったかのような。今一度、涙鬼は状況を整理しようとした。
床の黒い石タイルが一畳分裏返って木目になっていた。床下から明子の付き人が逆さまで飛び出してきたのである。彼女だけ天地が逆さで、天井に向かって着地しようとしているように見えたが、それも一瞬のことで、舞うように袖を翻しながら体をひねり、柔軟に片膝を曲げて一畳分のフローリングに着地していたのである。
「あなたさまは、もしや兄君の釜成さまでは」
老人が言う。ついさっき、饗庭に押されて水槽の向こうへと消えたはずだ。「兄君」と涙鬼は呟く。明子の付き人は乱れた着物をさっと整えた。
「随分とうやうやしい態度を取れるようになったのですね。在郷。何を考えていやがるんだぃ」
女性的で色気のあった語気がたちまち男に変わった。厳しくもふとした瞬間に表れるやさしげな……それこそ母性のようなものであったそれは消え失せて、神経質そうな眼差しをたたえている。しかし物腰柔らかな佇まいであり、人を小馬鹿にしているでもない。どこかちぐはぐな印象を与えている。
なぜ明子の付き人に成りすましていたのか、これが本性であるのかもわからない。この男は原水留釜成なのだ。怒れる赤角の発言を涙鬼は思い出していた。
「タヌキにかどわかされないよう、安全な場所まで避難させたいのです。釜成さまこそ、佐原寅子の娘の付き添いのフリをして。そのような、油断を誘うために丁度いい娘を用意してまで。あずまさまだけでなく和子お嬢さままで騙そうとなさっているとは」
「タヌキはトラと友好関係を取り戻す。弟と寅子さんとはそういう方向性で話がついている。お前は気が変わってヘビの方にでもついたんかぃ」
「何をおっしゃいますやら」
「伍文の言ったとおり、ボケ具合が進んでいやがるね」
「いつふみ」
老人――在郷はカッと目を見開かせ、瞳孔を揺らした。たちまち平常心を失わせて、車イスから立ち上がろうとしてよろめき、床に崩れ落ちた。
「いつふみ。いつふみどこや。いつふみ。あ、あ、お、おねえさん。うちの息子知りませんか? は、花火。花火見たい言うて……」
コンタクトレンズを探すようにベタベタと床に這いつくばる。人目に気がついて、ボロボロ涙を流して釜成の方へ手を伸ばした。釜成は冷ややかに見下ろしている。
「恵美歩ちゃん!」
あずまが声を上げた。山城が足早に在郷に近づいていった。「ダメだ!」と慌てて引き留めようとしたあずまよりも先に、彼女は涙目で震える老人の手を取った。涙鬼はあずまよりも在郷に近かった。山城を足止めすることはできたのに、眺めていることしかできなかった。頬杖ついてスナック菓子を一個一個口の中へ運び入れながら、頭をからっぽにして陳腐なテレビドラマを見ているような、一枚の見えない壁を隔てている感じであった。空耳だろうか、「あーあ」と女学生の嘲笑が耳に入ってきた。
「和子お嬢さまにご慈悲を、あずまさまァ」
号泣しているのか、歓喜しているのか。在郷は口早に言って、山城の手首を取ろうとした。しかし間近でありながら取り損なった。山城が突然ふらりとよろめいて、あずまが華奢な両肩を受け止めながらその身に引き寄せたのだ。山城は軽く目を回して顔色を悪くしていているようだった。
どこからともなく誰かが嘲笑する。
『山神の右目を単なる飾りにしているとは』
力加減を誤ったのか、在郷はバランスを崩した。両手を宙にさまよわせたまま、車イスは右に傾く。横転するかと見せかけて、ギュルリとタイヤをうならせ、ドリフトさながらにスピンした。
釜成は叫ぶ。
「あずまくん! 彼の術を打ち破るからその隙に逃げなさい! 鬼札持たされてるでしょ! 使えるだけ使って幻枠から脱出しなさい!」
釜成は右つま先を床にズンとめり込ませた。めくり上げて宙に飛び出した一枚の石タイルを在郷に目がけてシュートした。在郷が右の拳で叩き砕くその隙に回り込む。着物の裾の残像がひらめく。彼だけ自在に重力を操っているとでもいうのか、床すれすれに体を横に傾けながらブーメランのように飛躍して、ひねりを加えながら車イスごと両足で跳び蹴りした。プロレスラーでも真似できない型のドロップキックだ。
「千堂くん、こっち!」
山城の手を引っ張りながらあずまが呼ぶ。さっき饗庭が突っ込んでいった方向だ。早くも彼が鬼札で作り出したタツノオトシゴがクルクルと横回転している。
白獣鬼も待っていた。ヤツが身震いしたとたんにその面のガラスが螺旋状にヒビが入った。
「早く行こう!」
あずまの声に従う他なかった。螺旋状にヒビが入ったガラスは中心から一片ずつ奥に向かって割れ落ちる。最後の一枚が落ちるとあずまは山城を連れて水槽の向こう側へと進んでいく。ついていくと、ガラスの破片は一枚ずつ横向きに、螺旋階段のようにして浮いていた。
錦鯉が階段の中で泳いでいる。そして白獣鬼も、涙鬼が一段降りるごとに階段の中で移動する。
黄みがかった淡い光を放つ階段を下る紙のタツノオトシゴだけを頼りに暗闇を降りていく。八角形の筒状でねじれた黒塗りの壁だが、よくよく見れば鳥獣戯画風の絵画が彫られている。ペンギンにシロクマにオットセイ。飼育員もいる。水族館の中で惑わされ続けている証なのか、涙鬼には見当がつかない。またしても嘲笑が聞こえた気がした。泳ぐペンギンに紛れて単なる鳥が飛んでいるのが彫られている。
「だいじょうぶ。足元見て。ゆっくりでいいからね」
儚そうな階段だ。それでも山城の歩みに合わせてノロノロ降りていく様子にイライラさせられた。いや、あずまの王子様のような気遣いに甘んじて手を放さずにオドオドと一歩ずつでしか降りようとしない山城に、だ。事情はわからないが老人はあずまに目をつけていて、山城も何となくでも把握したはずだ。一足先に行っていいよ、の一言くらいあってもいいではないか。
先導しているタツノオトシゴもあずまを置いていく訳にはいかないので、急かしているのか回転を速めている。
「正月の時に、またお札をもらえて良かったよ。知らないうちに残りの一枚もなくなってて」
基本的に。鬼札は所持者が使いたい時に効果を念じるものだ。だが時として、この“所持者”という概念の曖昧さによって鬼札は現・所持者の意思を無視して発動する。
鬼札をあずまに与えていたのは辰郎である。あずまを手助けするようにあらかじめ彼が念じていたのなら、あずまの予期せぬ悪意を鬼札が感知し、危険レベルに応じて術を発動するかどうか勝手に判断し、当人の知らない間に救済したのだろう。もちろん、ヒトならざる存在による危険から、だ。
「試しに彼女を突き落としたらどうなると思う?」
こそり、と。背後の女学生が悪戯っぽい声をかけてきた。
「彼もいっしょに落ちちゃうと思う?」
幅屋みたいなクズじゃあるまいし。そんな悪ふざけが過ぎることをする訳がない。ましてやあずまに危険が及ぶかもしれないことを。山城が誤って足を踏み外したら必ず彼は助けようとする。手伝いを頼んでくるかもしれないし、そうなったら断りにくい。
あるいは。鬼の呪いを持っている自分の意志を鬼札は感知するだろうか。ヒトならざる者だと判断するのだろうか。あずまを守るために千堂家の鬼札は反発するだろうか。
「あの。他のみんなは……」
おずおずと山城が言う。やけに声が耳につく。
「見えないだけで意外と近くにいるかもしれないよ。真帆志くんを見つけられたら、もしかしたらみんなと合流できるかも」
「あの、さっきの、消えちゃったヤツ……?」
「うん。真帆志くん、去年からなんだか何か見えてるみたいだったから。見えてるっていうか、わかっちゃってるみたいな。具体的にはまだ何も教えてもらってないから、もしかしたら真帆志くんも何が見えてるのか考えてる途中なのかも。ごめんね、あいまいな可能性の話しちゃって」
「ううん」
「千堂くんは何か見えてたりしない?」
こっちに話を振られるとは思わず、涙鬼は驚きの声を詰まらせた。一拍置いて「い、いや」と否定してみせるが、小声だったせいで聞こえなかったらしい。「おじいさん追ってきてない?」と続けざまに問いかけてきた。
「いや、別に。だって、車イスだし」
「車イスなんだけど、何してくるかわかんないから。もし恵美歩ちゃんが狙われたら、いざって時は俺が囮になるから、千堂くんが代わりに恵美歩ちゃんを安全なとこまで連れてってよ。あと、そうだ」
あずまは足を止めてズボンのポケットから数枚の紙を引っ張り出した。鬼札である。
「これ、恵美歩ちゃんに分けとくよ。ピンチな時に念じれば守ってくれるんだよ」
「え、う、ん。あ、ありがとう……」
出会ったばかりの奴にそんなホイホイと渡して良いものではない。涙鬼はそう思ったが口には出せなかった。あずまに与えられた鬼札はあずまのものだ。彼がそれをどう扱おうが彼の勝手だ。山城はオトナの都合で巻き込まれただけに過ぎない。罪悪感にしても義務感にしても、あずまがこの女子を守りたい気持ちは正しい。理性的な面では素直に理解できているのに、それでも涙鬼はどこか納得できないでいた。
「和子ちゃんにもコレ、渡せたらいいんだけど。和子ちゃんにも関係してる話らしいし、きっと迷惑してると思うんだ。そばに圭太郎くんと孝知くんがいればいいんだけど。アッキーも心配だし」
「そういえば、あの、お父さんが殊久遠寺邸に待ってるって言ってたよね、さっき……」
「うん。嘘だと思うけどね」
あずまはきっぱりと言った。
「なーんか感じ悪いよね」
女学生が陰口をたたく。
「男の友情に女が当たり前のように割り込んじゃってさ。関係性をグチャグチャにしてる自覚持てよって思わない?」
馴れ馴れしい。つい下唇が力んでしまっているのを涙鬼は自覚する。自分にだけ聞こえる声量で、あずまも山城も気づいていないようだ。
「さっきのジイサンに捕まってたら、どうなってたんだろうね」
山城のことだろう。
「そもそも。ジイサンの方が正しいかもしれないでしょ」
釜成の方が嘘をついていて、在郷は本当にあずまを助けようとしてくれていた。本当にそうなのだろうか。あずまは老人に不信感を見出したようだったし、何よりオトナの都合という一言で片づけられている一連の成り行きにただただ身を任せているだけに過ぎない。
唯一確実なことといえば、鬼札はあずまを助けようとしているということなのだ。ただ、祖父・魁次郎が作ったものにしても母・魅来が作ったものにしても、鬼札は万能ではない。
タツノオトシゴが高く飛び上がり、一斉に見上げた。黒塗りの壁が内側に粉砕し、光の霧の中から数匹の錦鯉と共に在郷が躍り出てきた。車イスはゆっくり横回転しながら浮いていた。
タツノオトシゴが素早く戻ってきた。もたもたするな。そう訴えかけているのだろう、あずまたちのペースを待たずに階段を下り始めた。
「急ごう!」
あずまは山城の手を引いた。足元を気にしていられなかった。
「あずまさま! その先はキケンです!」
在郷が声を荒げた。螺旋階段の底の方から風のうなりがあった。白い炎がちらついた。白い炎の頭髪だった。
女学生が叫び声をあげた。巨大な赤ら顔の、サルの頭部のバケモノが二重三重に大きな口を開けている。無数の牙を突き出して電動ドリルのような不快な音を立てている。口腔の奥には炎の舌が待ち受けていて、地獄の入り口を彷彿とさせた。
「俺を信じて!」
あずまが力強い声を上げた。
釜成が黒塗りの壁を駆けている。たたん、たたん、と二度スキップをした。煌々と金色になった草履で壁をむきながら滑走している。
あっという間にサルのバケモノとすれ違った。あずまはどんどん山城を引っ張って下へ突き進んだ。涙鬼も夢中になってついていった。