幅屋圭太郎は遠慮を知らない1
赤角から明かされたタヌキのおカネ問題がどうなったのか不明なまま、涙鬼は何事もない日々を過ごしていた。五月の第三土曜日の午前中までは。
午前の授業が終わって放課後。涙鬼はウサギ小屋の前で立ち尽くしていた。幅屋が腰を落として蟹股で一匹のウサギを追いかけている。いつまでも眼帯をしているせいで距離感がつかめないのか、ドタドタと足踏みだけ続けて、他のウサギが股の間を交互に潜り抜けている。
「なんか幅屋、お相撲さんみたい」と、左隣の殊久遠寺が言った。右隣の饗庭が前歯を見せながら「ヒィー」と引き笑い。
涙鬼はどちらかといえば貧相なドンキーコングだと思った。幅屋のクセに見てくれを気にして今年からダイエットを始めたらしく、おかげで多少はスリムになったようだが、それでもクラスメイトの中では未だに群を抜いて図体はデカかった。
幅屋はようやくウサギを背後から両手でむんずと引っつかむと、右手でお尻を支えるようにして抱きかかえる。ウサギは足をばたつかせることもできずに鼻をヒクヒクさせている。「圭太郎くん、ウサギ持つのうまくなったね」とあずまが褒めた。
「こいつウンチ踏んでんねんて」
幅屋はシールをはがすのと何ら変わらないという所作で、ウサギの後足にくっ付いている円形に潰れた糞を取った。殊久遠寺の左隣の高矢が「ウゲーッ」と苦い顔をしている。
「ちゃんと手ェ洗うからええやろがい」
「ウンコ触ったっていう事実がキツイ」
「ンだテメー」
幅屋は無造作に高矢へ向かって網目越しにはがした糞を放り投げた。高矢と殊久遠寺は叫喚した。饗庭がゲラゲラと笑いのけ反る。
あの幅屋が率先してトイレ掃除をするようにまでなったというのがにわかには信じがたいのに! 涙鬼は平然と汚物に触れたヤツの姿に胸がひりついた気がした。舞前のように何かに操られているか、なりすましていると言われた方が充分に納得できるほどであった。
「ダメだよ圭太郎くん、そんなことしちゃあ」
あずまが楽しそうに新しい藁を敷き詰めている。涙鬼は改めて、周囲の存在を白い目で流し見た。
殊久遠寺がいるのは別にどうってことはない。が、彼女はあずまではなく幅屋の様子をうかがうためについてきた節がある。しかも『お相撲さんみたい』だなんて軽口を使ってみせている。小耳にはさんだウワサによれば、女子の人気者である郡司をふって真逆の立場である幅屋に乗り換えたという。けれどあずまが言うには幅屋と高矢はボディーガード、らしい……。
あずまと幅屋が持つ共通の情報が自分にはもたらされていない。涙鬼は両手でランドセルの肩ベルトを握る。
「もうちょっとで終わっから。待ってろ千堂」
真顔の幅屋と片目同士が合って、ついそらした。疎外感と居心地の悪さを見透かされてしまった気がしたからだ。いや、コイツに限って他者の気持ちを汲み取れるはずがない。
「やっぱ手伝おっか?」
「もうちょっとで終わっから。ありがとう」
殊久遠寺の申し出に、幅屋はパッと笑って断った。高矢は眉間にしわを寄せていた。
幅屋は有言実行でテキパキとやるべきことをこなした。
「石鹸で手ェ洗うついでにカギ返しに行くわ。ここに入れてくれ」
彼は小屋を出てから糞を触っていない方の手でズボンのポケットを広げる。カギを手にしているあずまはキョトンとした。
「いっしょに返しに行かないの?」
「今日は千堂とさっさと帰れ。ずっと待っててくれてたんやから」
「カギ返す時間くらいどうってことないよ。ね?」
あずまに振り向かれて、涙鬼は言葉に詰まる。今まであずまとヤツがフタリでカギを返しに行き、そのままの流れで一緒に下校してしまわないかが気がかりで、ずっと後ろをついて回ってきたからだ。
「バスの時間があるやろ」
さりげない高矢の言葉に、涙鬼は内心むくれた。自分の意見を示さないことを馬鹿にされているのだ。
「……別に、ひとりで帰っても」
「ハイハイハイ! 饗庭真帆志、カギの返却任務遂行に立候補いたします!」
トカゲのようにキョロキョロと目を泳がせては瞬きを繰り返していた饗庭が、つま先立ちになって挙手しながら涙鬼の言葉尻にかぶせた。
「うむ。そんじゃあカギ、饗庭にやれ」
「え? こういうのは係の人が最後まで責任もって返さないといけないんだよ?」
「俺に押しつけられたって言やぁエエんや」
「ダメだよ。怒られるの圭太郎くんなんだから。いつも俺といっしょに返しにいってるじゃん」
あずまは目を真ん丸に見開いて、若干に声音を硬くさせて頭を振った。
「ホラ千堂が困ってんだろ。さっさと俺か饗庭にカギ渡せ」
幅屋は高圧的に一歩踏み出し、左手をずいと出す。『千堂が困ってんだろぉ』はイジメの決まり文句の一つでもあったが、ヘラヘラ顔をするでもニヤニヤ顔をするでもなく至極マジメに言っているようであった。涙鬼はさすがに気を使われていることを認めるも、頭の具合が悪くなりそうだった。これも幅屋がらしくない余計な善意をひり出しているのがいけない。
「どうして? いつも三人で返しに行ってたじゃんかよー」
「あーもー。ホラ! 触っちまうぞ!」
幅屋は糞を触った方の右手を振り回した。高矢は「あっぶね!」と腰をひねらせながら跳んで避け、殊久遠寺もちょこちょこと逃げた。
すると、あずまは他者のマヌケぶりを小馬鹿にするような表情をした。
「あのさ、俺も今おんなじくらいバッチィ状態なんだから意味ないよソレ」
「ウ、たしかに」
呆れた目を返された幅屋は右手を握りしめて下ろした。油断していた涙鬼は虚を突かれた思いをした。
「じゃあ日比谷くんもすぐ石鹸で手を洗った方がいいんだもん」
殊久遠寺がポツリと言った。饗庭も「んだなー」と同意して、スシシと空き歯から笑った。
校門の方が妙に騒がしい。男子が「なっが! なっが!」と叫んでいる。饗庭が「ちょっと見てこよっかなー」とその場で小刻みに足踏みしてから駆け出した。
「バス間に合わないんだったら、車呼んで乗せてあげるもん」
真顔で見上げてくる殊久遠寺に、涙鬼は無言で見つめ返した。それをなぜだか勝手に幅屋が同意と決めつけた。
饗庭以外が二階まで向かった。できてしまっているグループのメンツに、下校する子たちから奇異の眼差しを向けられている。
あずまと幅屋がレモン石鹸で手を洗っている間、高矢は洗面台にバランスよく腰かけ、殊久遠寺はジッと手の動きをのぞき込んでいる。涙鬼はなぜ自分だけでなくこのフタリもわざわざ内履きズックに変えてまでついてきているのか疑問に感じていた。
ぞろぞろと職員室に向かい、最後までカギを持っていたあずまが返却した。幅屋は廊下で爪に入り込んだレモン石鹸をほじくっていて、涙鬼は顔をしかめた。
昇降口に戻ると、既に饗庭が戻っていた。両腕を胸に引き寄せてソワソワしていた。「なんかあったんか?」と幅屋がたずねた。
「黒くて長いクルマ。アレなんて言うんだっけ?」
「バスやろ」
「バスじゃなくて」
あずまが「リムジン?」と答えると、饗庭は「そうソレ!」と高揚して指さす。
「あー、殊久遠寺のお迎えか」と言う幅屋に殊久遠寺は首を横にブンブン振って、ヘアゴムのサクランボも揺らした。
「ちがうちがう! 目が合っちゃって声かけられて! せ、千堂くんと日比谷くんを迎えに来たって!」
「ハァ?」
全員が目を丸くした。饗庭は忙しなく腰をひねり、「ア!」と校門の方を指さした。
黄土色のベレー帽とワンピースの少女が腹部で指を組んで歩いてくる。近づくにつれてそれが他校の制服であることがわかる。髪の色で、涙鬼はそれが誰なのかまでも理解した。
「アッキーだ!」
あずまも正体に気がついて喜色満面で手を振った。明子はニコリと微笑んだ。
「ひさしぶり。涙鬼くん、あずまくん……。それからはじめましてみなさん。わたしは涙鬼くんのイトコの佐原明子といいます」
彼女は指を組んだまま静々と頭を下げた。「目ェが似とる」と幅屋が独り言ちている。
「どうしちゃったの? なんだか雰囲気が違ってるけど」
正月に出会った時とまるで別人の態度に、あずまは戸惑う。
「ふふ。あの時は着物だったから、印象が違ってみえるのも仕方ないと思うな。だけど制服姿も似合ってるでしょ?」
明子は自信なさげに上目づかいをして、はにかんでみせる。
「う、うん。カワイイと思うよ」
「ふふ。ありがとう」
まんまと誤魔化されてあずまは頬を赤らめてしまう。
「あのネ、あずまくんに会わせたい子がいるんだ。最近知り合って友だちになったんだけど、きっとあずまくんとも気が合うんじゃないカナって。モチロン、涙鬼くんも仲良くしてほしいな……」
か弱い女子っぽい振る舞いをする従姉に涙鬼はうんざりした。正直にキモチワルイと言ってしまいたかったが、分が悪いのは自分である。
「車の中で待ってるから、行こう」
校門の前にドラマでしか見たことがないリムジンが停車していた。サイドガラスにはスモークフィルムが施されている。好奇心旺盛な低学年の男子たちが内部を見通してやろうと顔を近づけている。黒い窓に幅屋がズンズンと近づいてくる様子をとらえ、退散していく。
自動的にドアが開かれると、明子はあずまと涙鬼に乗り込むよう指示する。これまで何度か明子と交流があっても、涙鬼にとってリムジンに乗るのはこれが初めてである。今まで嗅いだことのないニオイがした。
モノトーンの内装。足を延ばして寝転がれそうな革張りのソファが車内を囲んでいる。ドリンクのカラフルな小瓶と、クリスタルのようにきらめいているグラスが並ぶ小さなバーのようなキャビネット。オーディオコンポとテレビ、ビデオデッキも設置されている。車に乗り込んだつもりが映画のセット内にワープしたと錯覚してしまいそうになる。涙鬼は別に羨ましくない風に装いながらも、身の丈に合わない空間に落ち着かなかった。
それは車内で待機していた彼女も同じのようであった。明子とはまた別の制服だろうギンガムチェックの上下。硬く背筋を伸ばして、校章が付いた黒い学帽を膝上でクシャリと曲げている。殊久遠寺よりは背がありそうな、しかし彼女と比べて愛くるしさのない平凡な丸顔をしていた。
「あずまくんはそのままお隣に座ってね」
「うん」
明子に指定されるがまま、あずまは座った。女子の肩がさらに硬くなったようである。涙鬼はあずまに続いて隣に腰を落とした。
「あ、あ、あの俺らも乗ってエエんか!?」
入口から首を突っ込んでいる幅屋が叫んだ。明子は「え」と一瞬気を抜いて、すぐ女子の表情を作った。
「たのむ! 俺も乗せてくれ! 俺もそのコと仲良くなりたい!」
幅屋はヤケに必死になって指を組んでお願いのポーズを取った。
「じゃあワコも! ワコもお友だちになりたいんだもん!」
殊久遠寺も首を突っ込んで片腕を振った。
「いいよね、アッキー。みんなで友だちになろうよ!」
発車させたらいつものアッキー・モードになるつもりだったに違いない。カッコつけてリムジンなんかで迎えに来たからいけないのだ。涙鬼は白い目で従姉を見上げた。あずまの善意を真正面から受けてしまっては、嫌とは言えないだろう。
幅屋、殊久遠寺、高矢、饗庭の順に次々と乗り込んできた。
「あー、なんか目ェかゆい!」
初対面の女子の顔をよく見るためだろう、幅屋はわざとらしく眼帯を取りながら、向かい側にバフンと座った。女子は委縮していて目のやり場に困っている様子である。
幅屋の隣にさっさと殊久遠寺、高矢、饗庭と腰かける。女子に警戒されているとわかっているのかいないのか、幅屋は腕を組んでサンルーフの天井を見上げた。
明子は全員分のグラスを用意し、オレンジジュースの瓶の蓋を開けようとした。
「開けてやるよ」
幅屋がすっくと立って彼女の手から瓶とオープナーを奪い取った。スポッ、と小気味いい音がした。
「うわ、開けるのうまーい」
「最近よく開けてっから」
殊久遠寺に褒められて、得意げに明子の分からジュースを注いでいく。高矢はつまらなそうに背もたれに肘をついている。奴も高級車は初めてだろうというのに、殊久遠寺に当たらない程度に足を広げて陣取っている。
明子も着席するとリムジンが動き出した。
「あずまくん。このコは山城恵美歩ちゃん。亘区にあるリラ聖堂女学院小学校の五年生。恵美歩ちゃん。こちら日比谷あずまくん。それから、わたしのイトコの千堂涙鬼くん」
名前を呼ばれた山城は肩を跳ねさせるのと同時によりカチコチに固まって、か細くカタコトで「ヨ、ヨロシクぅ」と応答した。
「俺は幅屋。で、殊久遠寺和子、高矢孝知、饗庭真帆志だ」
一気に紹介されてしまっては混乱するのも無理もない。山城はエサを求める金魚のように口をパクパクさせながら何度も目礼をした。
「もし困ったことがあればいつでも俺らが力になってやるからな」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。今の幅屋くんは良い奴だから」
「いや良い奴ではない」
不審がられないように饗庭が言葉を足してあげるも、幅屋は即座に自分で否定してジュースを飲む。山城はぎこちなく口角を上げた。力になると言われても、初対面のガラの悪い男子に助けを求めるマヌケはいない。
「幅屋くんたちとはわたしも初対面だからわからないけど、あずまくんは誰に対しても優しいし、きっと恵美歩ちゃんも好きになれるよ」
明子の言葉に反応して幅屋がむせた。
「女子の友だちいねぇのかよ」
ゴリラのように胸を叩いている幅屋を白い目で流し見ながら高矢が問う。高矢の声音が冷ややかに感じ取ったのだろう、山城は申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「ウーン、今回のことはここだけのヒミツにしてほしいんだけど、いい? みんなナイショにしていられる?」
明子は手を合わせて、意味深長な面持ちで幅屋たちを回し見た。幅屋が「ダイジョウブ……だいじょうぶだ……」胸をさすりながら言う。
「もし誰かにバラそうもんなら俺がぶん殴る」
さすっていた手を拳に変えて、主に饗庭に見せつける。饗庭はロボットのようにうなずく。
「あずまくんの友だちであることに免じて……」
明子は目を吊り上げてアッキー・モードの片鱗をちらつかせつつ、あずまと山城のフタリに両手を差し向ける。
「オトナの事情により、おフタリは許婚になりました」
「は?」
涙鬼は呆けた。聞き間違いかと思った。