管竹光は母親面できない
「水面下に潜み続けていたアレがついに顔を出そうとしているようさね」
そう言って、佐原寅子は官能的に煙管をくわえた。しばし味わって、煙管を持つ手の根を顎に当てると斜めに朱色の唇を歪ませ、吊り上がっている方の口角をヒクつかせながら紫煙を吹かせる。「そのまま溺れ死んどきゃあ……」と底冷えする声を漏らす。
「上野大國はまだ諦めてないのかい?」
「いいえ。彼はもう諦めています」
「……そう。この十年で考えが変わったのね」
夏はまだ先なのにヒマワリの柄の浴衣を気だるげに着崩して、白い胸のやわらかな谷間をあらわにさせている。さらに片膝を立てているせいであともう一押しのところで女の際どい部分が明らかになりそうになっている。しかし引き締まった太腿の内側にはガシャドクロの刺青がしがみついていて、こちらを黙って振り向いている。不届き千万を許さないことを黒々とした眼窩が圧をかけている。
「なおも境区が広がっているってェのに。みさ子ちゃんの命はこうしている間にも燃え尽きようとしているんだ」
「白霊山の恩恵が薄まっているかどうかは調査中でございます」
「人間の暮らしに憧れた市外のモンが境区に目をつけてやって来やがんのさ。泰京の世話にはなるが四家には下りたくねぇっていう連中サ。人間サマとして暮らしたいクセして最低限のマナーを守らず人間を見下して威張りつくして、おまけに白霊山に群がって恩恵をむさぼろうとするしょーもない連中サ」
「誰かに聞かれてはマズいことはあらかじめ慎んでおくべきかと。あくまでわたくしめの推察ですと、埋め立てによって恩恵が弱まった……というよりも、土地が拡張されたことで恩恵を受ける範囲も広がってしまったからではないかと」
「あとでカルピスサワーでもがぶ飲みしてやろうかしら」
最初から清楚であれ、と。向かい合う形で姿勢正しくしている管竹光は口にはしなかった。水商売を……それもタヌキの店で経験した賜物か、接客する時は見間違えるくらいに態度が変貌するのである。それに、今の尊大な態度すら仮面をかぶっていると言っていい。これは四家の血を引く者としての威光をまとった寅子としての姿なのだ。今となっては心から身をゆだねて甘えられる安息の地は愛する男の前だけなのだ。
「倭文は相変わらずタヌキの店に通っていやがるし。あの女も出戻って釜遊弟に媚び売ってるっていうじゃない」
「彼らが養子縁組を目論んでいるのは間違いありません」
「どいつもこいつも癪に障んのよ」
新たに予約制のお茶会サービスを始める予定なのだと、愛しの旦那様にこしらえさせた茶室は豪華絢爛な温泉旅館『天頂環』に圧倒された人々の細やかな避難所のようにも感じられた。その避難所でですら実区を支配している“トラの足”の時期大将の座を巡る争いに嫌でも巻き込まれているだろう強い女の顔をしている。まだ花瓶も飾られていない六畳の和室で、彼女は凛とした琥珀色の瞳を光らせている。竹光は多少の憐れみを持ち合わせていた。
「かっちゃんを狙ったヤツは見えたの?」
「はい。近々、竹幸が始末します」
「今のところ。かっちゃんはまだ生き残るのよね?」
「今のところは。そして“子どもは見込めない”という点も、変わらず」
「あずっちゃんの未来だけは読めないなんてね……」
「慈悲ではない別の他力に阻害されています」
「あずっちゃんが殊久遠寺ンとこのお嬢ちゃんとくっつけたらどうなるかも見えない?」
「結婚生活はうかがえませんでした」
竹光にとって。寅子と辰郎の母・琥将つばさとは一線を置いた間柄であった。琥将つばさは友だちだと思っているようであったが、竹光は彼女のふしだらな未来を読んでいた。琥将つばさは例にもれず男も女も求め、夫も愛人も当たり前のように手に入れた。占い師としてではなくヒトリのニンゲンとして何らかの忠告をしていれば良かったのだろうか。そうしていた場合の未来を読もうとまでは気が回らなかった。男を愛するにしろ、女を愛するにしろ。不潔だ、と。
男も女も平等に愛すが、けして博愛主義ではない。愛欲に忠実なトラの現・大将は我が子にまで愛情を回す余裕はない。子は愛の結晶である。だから大切に扱わなければならない。だから、竹光は乳母に任命された。先を見通す力があればいい子に育てることくらいお茶の子さいさいだろう、と。男の方は……この際に思い出す必要はない。結局、役立たず。それだけである。
「……妖精さん、かしらね」
「定かではありません」
「千堂家に預けたらどうなる?」
「占うまでもなく、市外の妖怪に装った奇襲を恐れるべきです」
「魅来ちゃんの負担になるのも気が引けちゃうしね。初めての姪っ子になるんだから」
竹光にとって、寅子は生まれ落ちたその日からの付き合いだった。だから顔を合わせるなり『コラ、寅子。そんなはしたない恰好おやめなさい。なんですかその刺青は』と叱るべきなのかもしれない。しかし寅子は今、あくまでも“トラの足”の寅子としてここにいる。
「いっそのことうちの明子ちゃんと結ばれればいいのかしら」
「なりません! “若旦那”が知ったらどうなるか――」
竹光は前のめりに姿勢を崩して畳に手を突いた。寅子は短い溜め息をついて頭を振る。面倒そうな素振りはタヌキやヘビに向けてであった。
「明子ちゃんもあずっちゃんのこと気に入っててさ。初めてだったんだよ。だからちょっと思っちゃっただけさね」
カン、と。煙管で鼈甲の灰皿を小気味よく叩く。
「ミツさんのことだから、もうとっくに手ごろなお嬢さんを見つけてあるんだろ」
「旧華族の山城家に双子の娘がいます。ご両親が仕事上の別居中で片方はニューヨークで暮らしているとか」
「じゃあもう片方をあてがうのね」
「一時的に」
「別にお互いが気に入るんだったらそのまま結婚しちゃえばいいじゃない」
「先約があります」
「先約?」
「その娘は他と結ばれます」
「まったくおもしろくないわ。恋愛ドラマの醍醐味ってもんがないよ」
「醍醐味?」
「未来なんて誰もわかるワケないのに運命感じてドキドキしちゃうとかね」
「わたくしには理解しかねます」
寅子は「ふふ」と目を細めて微笑んだ。
恋愛ドラマにしろ、刑事ドラマにしろ。占ってしまえば一瞬で結末がわかってしまう。竹光は自分の意志でテレビを見たことがない。彼女は竹幸と寅子の殴る蹴るの大喧嘩を何度も見てきた。特に『太陽にほえろ』のジーパン刑事が殉職することをバラされた時の寅子は鬼のようだった。
「ミツさんて、今までドキドキしたことないの?」
結末を知りたそうだったから教えてあげたかった。時間の無駄だと思ったから。息子の独善を目の当たりにして、未来を知ることは必ずしも得ではないということを改めて学んだ竹光だったが、占いの力を正しく受け継いでいくためには正しく結婚相手を選ばなければならなかった。もはや作業。我が子だけでなく寅子の育児もしなければならなくなった時、体力的に大変ではあったが精神的には参ることはなかったのは作業の延長線上にあったからなのだろう。
「自分にとって不都合な未来が出たらどうしようかと、いつもドキドキしていますよ」
寅子が怒り狂うところまで占おうとはしなかった竹幸も、寅子の世話を押しつけられることまで占おうとしなかった自分も。単に詰めが甘いだけなのか、それとも無意識に自身の未来を見たくないと拒絶したのか。
占いは絶対ではない。振り回されず、最悪の可能性を切り開いてその向こうにあるかも不明瞭な幸福を手にする実力が自分にはあるのか、竹光はあまり考えたくはなかった。彼女はけして中毒ではなかった。過度に占いに頼って、人生の選択権を放棄しようとする顧客と同じにはなるまいと固く誓っていた。